ライオン誌日本語版1991年11月号
- ページ: 71
- M
ルタカ.は︑幻の存在だったのだろう
誘い合わせてジャカルタカ.の例
日には︑困っている人々と幸せを分
号
ポ
ルタカ.は︑前者の継承ではなかった
か︒一九六九年に再発足したジャカ のか︑国際名簿はこのことに何も触
れていない︒
会見学に足を運んだ︒ようやく
かち合う行事を企画する︒
1
胡
機運が高まり︑初代会長に㌘テ
となった︒
例会は毎月第二日曜日の午後七時
馴
N
ィピトが就任して︑五月に結成
から︑友情を高め明るい例会をもつ
︐L
㎜
O
サマー・マスウィ前会長によると︑
L
ことで︑出席率をよくしようとして
結成時の会員は二十五人︑現
いる︑とこの報告にはあったが︑国
T
﹄
ボゴアη.は一九七八年五月二十二日
在は四人の女性会員を含み十四
際名簿には例会は第一二二日曜日︑
付で認証された︒スポンサーはジャ
カルタ・ホストカラとあるが︑国際名
人となった︒もちろん会員増強
例会場所はセクレタリー・オフィス
を心がけ︑広く呼びかけている
とあるから︑幹事の会社にでも集ま
N
簿にはその名称のクラブはない︒お
そらく最初の親クラブという意味で︑
1
のだが︑会員の年齢層は三十五
0刑務所にミルクの配給 ②独立記念日︵八月十七日︶に 年金生活者に米と砂糖を贈る
③ボゴアηラによる視力検査
④ボゴアカ.フの例会風景
っているのだろうか︒インドネシア
歳から七十六歳と実に幅広い︒
では月一回の例会をもつクラブも多
ホストを用いているのであろう︒送
葬ティピトは今も元気に活躍し
いようで︑日曜日の午後というのが
D
られてきた便箋にも︑ポゴア・テラ タイ・ライオネスクラブと対称に︑
ボゴア・ホストη.と刷り込まれてい
L
ているが︑医師の■ブディハルサナ
ほかにもいくつかある︒
は数年前に亡くなった︒一九八〇年
マスウィ前会長は︑ポゴアの特徴
R
⑧
四月にライオネスクラブを作ったが︑
について書き足してくれた︒ジャカ
た︒あるいは親クラブに対する尊称
と考えるべきかも知れない︒
こちらも会員は十四人︑協力してク
ラブ活動に励んでいる︒
ルタの南五十キ︒にあるこの町は人口
W
一九七八年二月︑当時のジャカル
E
三十万︑グツドイヤー︑ユニテック
主なアクティビティは︑盲人児童
界
の ム ズ ニ オ
イ.
スなどの企業があるほか︑観光地と
タη.のT・アキプ会長と︑同僚の医
の学校と宿舎の援助︑公立の障害児
してはプンカク山︑植物園︑野生サ
H
T
師葬ガムビロの二人が︑ボゴアに住 む知人のティピト氏と︑同じ医師仲 間のブディハルサナ氏に接触︑クラ
ブの例会と理事会に出席してみるこ とを勧めた︒そこでクラブの目的と 活動内容などが説明され︑ポゴアに
教室の建設促進︑老人や障害者・児
ファリ公園が有名︒ことにボゴア植
にお小遣いを贈るなど︑月に一回は
物園は一八一一年に設立され︑八七
何かをしようと心がけている︒ジャ
鴛の園内には二万種類の植物がある︒
D
カルタカ.の温かい支援を得て︑共同
ラ
今年五月二十日は百七十四周年を記
N
U
で奉仕することもある︒何かと忙し
念して︑スハルト大統領を迎え盛大
い会員たちだが︑年に一度はゴルフ
な式典が催された︒あたかも一九九
O
R
も同じ趣旨のクラブを作ることが要 請された︒町に戻った二人は︑相談
しながら思わしい人を物色︑何回か
会とかバザーを催して︑事業資金を
一年は﹁インドネシア観光年﹂とし
集めている︒クリスマス︑新年︑そ
て︑政府も各国からの旅行者の勧誘
A
してバリ・ラヤ︵イスラム記念︶の
に躍起になって運動しているとか︒
71
- ▲TOP