ライオン誌日本語版1991年11月号
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㊥
自在な境地に至ると説かれた︒
ディサットバ︵菩薩︶となって自由
鹸
セ
こうした教えが今も生きているの か︑インドネシアには相互扶助︑隣
臥
ロ
吻 幻
タラが地区ガバナーとなっている︒ 現在の30地区には七十四クラブ︑二
号
1
用
千五十五人の会員がいるが︑首都ジ
馴
ャカルタには半数に近い三十一クラ
組制度が庶民の間にゆきわたり︑何
ブ
ブがある︒
m
州
事も﹁ムシャワラ・ムファカット﹂ ︵話し合いによる全会一致︶が物事
久 ㍉
この七月のブリスベーン国際大会
には︑インドネシアから大勢の会員
E
を決める基本とされる︒インドネシ アという広大な領域には︑自然︑民
る
東紬 島
ワ
ヤ
訪
騨ー
が参加︑男女そろいのユニフォーム
でパレードを行進し︑大いに気勢を
H
が︑同時に共通する特質も存在して︑
ジ
族︑社会ともに複雑な多様性がある 統一を求める力が強く作用する︒そ れを利用して強い国づくりをしよう
というのが︑この国の方針であると
あげていた︒大会最終日︑会場でさ
かんにビデオ撮影をしていた一団と
T
言う︒それはそのまま︑現在の国際
社会の縮図とも見られよう︒
同席し︑その女性ディレクターと知
り合った︒生きのよい声であれこれ
カメラマンに指示をしていたが︑パ
レード・コンテストの結果が︑ユニ
フォーム隊の一位が日本︑二位がイ
D
このインドネシアのライオンズか
ら︑近況を伝える便りが届いた︒ジ
ャカルタに近いボゴアη.の前会長葬
ンドネシアと発表されると飛び上が
結成が伝えられ︑スポンサーはオー
界 世 の ム ズ オ イ
ニ
って喜び︑握手を求めてきた︒にぎ
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ストラリアのシドニー・セントラル
やかで屈託のない気風が︑そこに感
サレー・マスウィ︑同じくジャワ島
のバンドン・レスタリカフの前幹事弱
η.とある︒その秋に発行された国際
じられたものである︒
名簿には︑一四六番目の国または領
いつもの国際大会ではあまり目立
メサ・スタンディからの二通である︒
域としてインドネシアがあげられ︑
たないインドネシアが︑ブリスベー
O
A
両クラブの活動ぶりに入る前に︑例
ジャカルタカラの結成は一九六九年十
ラ
ンに大勢の参加者を送り込んだのは
によって大急ぎでインドネシアのラ
一月十八日と記されている︒五年後
距離的に近いこともあったろうが︑
イオンズの沿革をたどってみよう︒
にはジャカルタ市内に四クラブと︑
やはり最初のクラブのスポンサーと
R 一九七〇年六月号﹃ライオン誌﹄
スマトラ島のメダンとパダンにクラ
いう血縁的な力も感じられる︒国際
日本語版の﹁シカゴだより﹂の記事
に︑インドネシアにジャカルタカラの
3
ブが生まれ︑07地区として︑ジャカ
会則は世界を七つの地域に分け︑国
ルタη.の初代会長葬プリンス・ビン
際理事の選出母体としている︒オー
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