ライオン誌日本語版1991年11月号
- ページ: 26
- です︒いかなる状況のなかでも︑戦
争以前に解決策は存在するはずです︒
はそこから多くを学んだと思えるの
バンドの音に合わせてディスコを楽
で︑ここに彼のことを書いておこう
と思います︒
しんでいる︒ホールの両端には食べ
26
私たち国民各々が︑その解決策を模
索する義務があるのです︒ヒロシマ
に私は︑このように教えられました︒
切れないほどの料理が︑半ば冷えか
トゥルシ・ダーレルは︑ネパール
けのまま放置されている︒こんな私
からのただ一人の参加者でした︒終
たちが︑本気で平和について話し合
海外からの参加者は︑さらに深刻 な衝撃を受けていた様子でした︒彼
らは事前に︑ヒロシマを予想だにし ていなかったからでしょう︒とくに アメリカ人のなかには︑展示されて
いたボロボロのアメリカ国旗を見て︑
始︑彼は茶目っ気たっぷりの明るさ
ってきたのだろうか︒いったい︑い
で周囲を楽しませてくれたので︑当
ままで私たちは何を得たのだろう︒
初︑私は彼のかかえていた問題にま
それは彼をして土地を失わせただけ
ったく気づかず︑一参加者として気
の価値があったのだろうか︑と自分
軽に接していたにすぎませんでした︒
に問い直さずにはいられませんでし
私が彼についてより深く知りたいと マで受けた素直な感情を今後いかに 発表し︑未来へと伝えていくかを考 えてゆかねばならない︑ということ
だったと思います︒
た︒その夜も︑就寝後しばらくその
自分がアメリカ人として資料館を見 学している状況にいたたまれず︑最 後までおられずにいた学生もいまし
た︒彼らは︑祖父や父が日本に対し て許しがたい行為をした︑恥を感じ
思い立ったのも︑さよならパーティ
ことを考えてみましたが︑どうして
ーが開かれた八月三十一日になって
も彼を気の毒に思わずにはいられま
からのことでした︒そこで広島から
せんでした︒
参加した足立君に︑このように聞い
たのです︒
翌朝︑本人からもっと詳しいこと
を聞こうと︑朝食の席で私はトゥル
を売ってきたそうだよ﹂
ずにはいられないと︑涙ながらに訴
えていました︒
トゥルシとの出会い この世界青年会議では︑多くの出 会いがありました︒バンカー国際会 長をはじめ︑一線で活躍されている ライオンズの方々︑世界各国から遠 路はるばる日本へやってきた学生た ち︑多忙のなか昼夜を分かたず私た
﹁彼はこの会議にくるために︑土地
シの隣に座りました︒彼は食事を終
えると︑一つひとつ私に話してくれ
私は︑彼らのヒロシマとの出会い を見るにつけ︑ヒロシマへの思い︑ そして平和への願いを再度かみしめ ました︒幸か不幸か︑私たちはヒロ シマに出会いました︒参加者はヒロ シマから多くのことを学んだことと 思います︒ヒロシマから戦争を知ら ない私たちへのメッセージは︑過去 に起きた戦争の恐ろしさを通じて︑ 平和の貴さを改めて認識し︑ヒロシ
なぜ土地を売らなければならなか
ました︒ネパールのライオンズクラ
ったのか︑という疑問がただちに脳
プは︑彼に世界青年会議への参加を
裏をかすめましたが︑それはともか
呼びかけたものの︑日本への往復旅
く︑その瞬間︑目前に繰り広げられ
費は支払えないと告げたこと︒それ
ていた楽しさに満ちみちた光景や音
でも彼は開催地が日本だと聞いて︑
ちの世話をしてくださったYEのO 声が︑一挙に色や音を失い︑安っぽ
B生の方々︒どの出会いも︑私にと
って新鮮で忘れがたいものになりま したが︑そのなかでもトゥルシとの 出会いは違った意味合いをもち︑私
に感じられました︒
一生に一度のチャンスだと思い︑参
号
いニセモノに変質してしまったよう
加を決断したこと︒お金が足りなか
用
ったため︑四人兄弟で分割して所有
旬
d
私たちはいま︑こんなに広くてき
している土地の彼の持ち分︑つまり
蜘
れいなホールにミラーポールをかけ︑
二五幹を売って飛行機代としたこと︑
山
- ▲TOP