ライオン誌日本語版2005年5月号
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- で 、 ご 家 族 の 話 で は 夜 九 時 に は お 休 み に な る 州 国 の 発 展 に 協 力 さ れ た 。 三 七 年 に 日 満 親 善
一 九 〇 七 年 生 ま れ の 氏 は 八 十 五 歳 の 高 齢 帝 に 即 位 、 弟 の 溥 傑 氏 は 補 佐 役 に 任 命 さ れ 満
八 月 半 ば の 蒸 し 暑 い 夏 の 夜 だ っ た 。
同 行 案 内 で 、 北 京 の 氏 の 自 宅 を 訪 問 し た の は
で 当 時 早 稲 田 大 学 に 留 学 し て い た 除 国 東 君 の れ も 何 か の 縁 と 感 慨 に ふ け っ た も の で あ る 。
十 一 年 が 経 過 し た 。 一 九 九 二 年 、 溥 傑 氏 の 甥 宣 言 し た 。 清 朝 末 裔 の 溥 傑 氏 を 思 い 出 し 、 こ
の 実 弟 、 溥 傑 氏 が 逝 去 さ れ て か ら 今 年 二 月 で 二 四 年 に ソ 連 ( 当 時 ) の 支 援 で 人 民 共 和 国 を
清 朝 最 後 の 皇 帝 、 宣 統 帝 こ と 愛 新 覚 羅 溥 儀 清 朝 の 支 配 下 か ら 独 立 し 、 自 治 政 府 を 樹 立 。 シ ア 大 陸 に 君 臨 し た モ ン ゴ ル は 、 辛 亥 革 命 で
阿 戸 健 次 ( 埼 玉 県 ・ 大 宮 見 沼 )
愛 新 覚 羅 溥 傑 氏 を 思 う
谷 井 外 二
︵ 愛 知 県 ・ 春 日 井 中 央 ︶
題 字 /
部 に 「 満 州 国 」 が 誕 生 。 兄 の 溥 儀 が 満 州 国 皇
三 二 年 、 旧 日 本 軍 部 の 策 謀 に よ り 中 国 東 北
ョ ン に 大 使 の 招 き で 出 席 し た 。 か つ て ユ ー ラ
催 さ れ た 共 和 国 宣 言 八 十 周 年 の 記 念 レ セ プ シ
る 関 係 で 、 昨 年 十 一 月 に モ ン ゴ ル 大 使 館 で 開
モ ン ゴ ル ・ ラ イ オ ン ズ 支 援 委 員 長 を 務 め て い
︵ 応 募 要 領
56 ジ
︶
ペ ー
う こ と 。 ( 広 辞 苑 )
w 大 い に 熱 弁 を ふ る
と え て い う 語 。
恐 れ さ せ る 威 力 に た
獅 子 が 吼 え て 百 獣 を
q 仏 が 説 法 す る の を 、
● 獅 子 吼 ( し し く )
→
私 は 今 期 、 複 合 地 区 の
で 学 び 卒 業 さ れ た 。
学 習 院 及 び 陸 軍 士 官 学 校 さ れ た 。 更 に 十 年 間 中 国 で 収 容 所 生 活 を 強 い
を 追 わ れ て 日 本 に 留 学 、 と 溥 傑 氏 は シ ベ リ ア に 連 行 さ れ 、 五 年 間 抑 留
軍 の ク ー デ タ ー で 紫 禁 城 壊 し 、 直 前 に 参 戦 し た ソ 連 軍 に よ り 皇 帝 溥 儀
だ っ た 。 そ の 後 の 馮 玉 祥
し た の は 、 氏 が 四 歳 の 時 も の に 強 い 憤 り を 感 じ て い た よ う で あ る 。
朝 が 辛 亥 革 命 に よ り 滅 亡 が 利 用 さ れ て い る こ と や 、 植 民 地 化 政 策 そ の
約 二 百 六 十 年 続 い た 清 皇 帝 溥 儀 や 溥 傑 氏 は 傀 儡 政 権 と し て 自 分 た ち
素 な 応 接 間 で 面 談 頂 い た 。 東 軍 は 現 地 満 人 に 横 暴 な 態 度 で 接 し た た め 、
時 間 を 拝 借 し 、 離 れ の 質 望 む 関 東 軍 は 冷 淡 で あ っ た と い う 。 ま た 、 関
か ら 四 十 分 間 ほ ど 貴 重 な 結 婚 。 そ の 後 、 二 女 児 が 誕 生 し た が 、 男 児 を
と 聞 い て い た の で 、 八 時 の 象 徴 と し て 氏 は 嵯 峨 侯 爵 の 長 女 浩 嬢 と 政 略
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イラスト/小川和政
浩 夫 人 は 四 七 年 に 日 本 に 引 き 揚 げ た が 、 戦
ら れ 、 共 産 党 に よ る 思 想 教 育 を 受 け た 。
四 五 年 八 月 、 日 本 の 敗 戦 に よ り 満 州 国 も 崩
The Lion 2005. 5月号
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