ライオン誌日本語版1991年11月号
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- き、米軍の斥候と遭遇した。たちま
った心身は立ち上がるだけにも半日
すが
ち撃ち合いとなって、米軍にも三人
を要した。林立する濯木の幹に槌り、
究?与猟J
会投稿を歓迎します。す原則とし
の犠牲者が出たが、具志堅一郎先輩
と同期の与那嶺浩君が戦死、東江君
ったい歩きをしているうちに、運よ
て四百字詰め原稿用紙四枚以内に
まどめてください.た住所、・氏名、
く小川にたどりついた。夢中で渇き
クラブ名、世相種、年齢酌を明記して
ください。
ましたら添付してください・返却
は胸部貫通の重症を負って担ぎ込ま
れた。
を癒し、やっと人心地ついたとき、
A ぱ関連する写真があり
寸水、水をください
L と、岬き声で
希望の場合は、その旨明記してく ださい。 AM 原稿は短くすることが
あります。また誌面の都合で婦載 .ιH 原稿 できない場合もあります AM はお返ししません。 ご家族の方
陸、海、空からの集中攻撃を受け
懇願する三人の兵の姿が自に止まっ た四月下旬、戦闘可能な者に多野岳 からの撤退命令が出た。重傷者は一 つの仮小屋に収容され、彼も他の重
傷者とともにとどまる運にあった。
た。彼は、傷の痛みをおして水を波
み与えてその場を去ったが、その後
直撃を受けて、その辺りは跡形もな
題字/佐藤
(岡山あげはセ〉
調雄
の投稿もお待ちしています,
く吹っ飛んだ。
我々の行く先もまた新たなる戦場に
しか過ぎない。我々は彼に心を残し ながらも、上官にせき立てられ、慌
山中をさまよい歩くうちに、偶然
にも配属将校、谷口中尉の率いる三
中鉄血勤皇隊に出会い、中尉は彼を
ただしく次の集結地へ向かった。
灯は再び
金城一雄
ハ沖縄東今〉
親元まで届けるよう三人の隊員に指
周りの者が次々と息絶えていくな かで、彼の生への執念はついに自力 でこの仮小屋脱出の決意をさせた。
食糧もなく、治療も施されぬままの
示した。学友に支えられてさらに進
んだ先で親戚の金城氏に会い、同氏
がその後の面倒を見てくれることに
なって、学友たちと別れた。やっと
今年は日米開戦以来五十年目の節
目にあたり、人々の間に 、 改 め て 戦
和二十年三月、我々沖縄県立第三中
生徒は、鉄血勤皇隊として、本島北 部の多野岳、八重岳に動員され、多
傷の痛み、それにも増してやり場の ない不安、絶望、学友たちが去って いったあとの虚脱感、極限状態にあ
連絡がついて駆けつけた父、盛長氏
と、末弟の平之氏(現琉球大学法文
争の愚かさと、悲惨な事実を掘り起
こす運動が高まりつつあ る 。
学部長〉に抱きかかえられて、家族 数の友人の命が奪われた。
しれつ
の待つ避難小屋についたのは、負傷 戦いが織烈をきわめていった四月
十四日、ともに多野岳に配置されて
あがりえ
あまたの悲劇を生み、その人の生 涯に残した心の傷跡は、かさぶたの
下でいまも血を吹き、身を挟られる
痛みがよみがえる。
から一カ月後のことであったという。
いた同期の東江康治君ら六人は斥候
を命じられ、連日の戦闘で疲れた体
勇氏は故郷の三中に在学していたが、
開戦八年前に米国で教育を受けるた 米軍の沖縄攻略が必至となった昭 を茂みのなかで小休止させていると
め再渡米、沖縄戦が始まると通訳と
T h eL i o n ' 9 . 1
東江家の二男で、米国生まれの盛
1 1 月 号
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