ライオン誌日本語版1991年11月号
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- 目
@不用品交換即売バザーを各家庭、企業に呼び
@清見屋デパート、八坂神社境内、、文化会館広
@毎年 7 月最終日犠日に、香取学翻の園児、父子
場で、年に 4 回、.献血協力を行うている。目標
招待。かき氷、綿あめ、後きそばなどの屋台を
たる佐原には、 JR の総武・成田
百俵を積んだといわれる利栂川高
古い家並みの残08三本地図箔祥のE刀£ F攻東太f!Jんの必涯の中総地だbた
う口古で東京から一時間二十五分
され、その他たくさんの往来の船 がやってきたというから、その賑 わいのほどが想像できよう。 船速は、農産物や日用雑貨口聞な
どとともに、旅客も対象にしたと
ほど。成田と銚子のほぼ中間に佼
寵している。高速道路も東関東自
動事迫が隣町の潮来まで延びたた
めに、 H 小江戸。あるいは砂関東の
は、たいへん便利になった。
江戸中期から幕末にかけての佐原
は、まさに全盛期の観を呈してい た。安政二年(一八五五)に発刊
された『利根川図志』には、「佐原
利根川べりにあって古くから発
展してきた町だけに、いまなおい
ろいろの古いものが残されている
が、佐原磯子で知られるお祭りは、 秩父の夜まつり、川越まつりとと
‘もに、関東の三大まつりといわれ ている。そのシンボルとして「水
は下利根第一繁昌の地なり。村の
中程に川有りて新宿、本{筒の問に
橋を架す大橋(忠敬橋)と一言う。
千葉県佐原
ふるさと探訪
米穀諸荷物の揚げ下げ、旅人の船、
川口より此所まで先をあらそひ、
郷佐原山車会館」が、八坂神社境
内に建てられている。
両岸の狭きをうらみ、誠に水陸往
来の群衆、昼夜止むことなし」と
記されてある。
五十歳を過ぎてから、日本全国 をくまなく歩いて測量し、我が国
最初の実地測量による正確な地図
を作成した伊能忠敬の旧宅も、町
明治から大正にかけて、佐原は 千葉県で千葉、銚子に次いで船橋
と三番目を争う商都であった。
の中央を流れる利線川支流の小野
川のほとりにあって、店舗、母屋、
が、明治十年(一八七七)に蒸
佐阪商工会議所同
土蔵が国指定の史跡になっている。
気船の定期航路が東京と銚子に通 創建が神武天皇の御代十八年と
じ、明治三十一年に成凹と佐原問
⑥287 千葉県佐原市
採血量 10万 cc 。
f t 0 4 7 8 ‑ 5 4 ‑ 2 2 4 4
1965年 5 月 14 日
戸時代には利桜川の水路によって、
撮影/伊沢秀被
には国道日号に架かる水郷大橋が 利根川上下流の沿岸地域ばかりで
はなく、下総はおろか、東北地方
l昨
場
f t 0 4 7 8
完成して、利根川の船速を大きく
変えてしまった。、」のことが今日、
会
. ( : 同 j
の物・産までが砂坂東太郎。をさか
のぼって江戸に運ばれるようにな り、佐原はその中継地として繁栄
ひと昔前のような佐原の美しい自
然と優れた町並みを減す、」とにも
なったのである。
例 会 日
圃
会
Eミ
数
9 8 人
流域の中心地であって、とくに江
道で結ぼれた。一方、昭和十一年
1 1 月 4
る佐原地方は、古代から利根川下
一二)にはついに佐原と銚子聞も鉄
佐原イ 525
佐J京 消 工 会 談 所
目5 4 2 2 4 4
伝えられている香取判官の鎮座す
の鉄道が開通、昭和八年(一九三
千葉県・銚子
第 2 ・ 第 4 ( 金 )
5 月 1 0 月1 9 : 0 0
月 1 8 : 3 0
かけたとニろ、
に贈呈された。
古都。とも呼ばれる佐原に行くに
ころから人の交流も盛んになり、
用意し、帰りにはお土産を贈うている。
線経由の特急「あやめ号」「すいご
瀬船が三十般、川舟五十般が所有
金、交通遺児象庭緩助、身体穣害者の車いす等
兄をボランテイアとともに会員総出で海の家に
た。 370万円の売上金は千葉県腎・アイバシク基
l 万点が寄せられ大盛況となっ
水郷筑波国定公図の表玄関にあ
した。その当時、佐原には米約五
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