FAQ

ライオンズクラブの組織や、日本国内で多くのクラブが取り組んでいる主な奉仕活動について、FAQ形式で解説しています。

■組織について


Q. ライオンズクラブ国際協会はいつ、どこで出来たのですか?

 1917年にアメリカ・イリノイ州シカゴで創設されました。創設者メルビン・ジョーンズはシカゴで保険業を営んでいましたが、実業家同士が昼食を取りながら情報交換をするビジネス・サークルに参加する中で、「このようにビジネスで成功を収めている人々の能力を、地域社会向上のために生かす全米的な組織が作れないだろうか」と考えるようになりました。
 そこでアメリカ国内の類似のクラブに呼びかけ、これに応じたクラブの代表20人が1917年6月7日にシカゴのラサールホテルに集い、最初の会合を持ちました。そして新組織の名称として、ここに参加した一つのクラブの名前を取って「ライオンズクラブ協会」とすることを決定。1920年にはカナダにアメリカ国外最初のクラブが設立され、「ライオンズクラブ国際協会」となりました。  日本は、1952年3月5日に東京ライオンズクラブが結成され、世界で35番目のライオンズ国となりました。
 国際本部は1972年にシカゴから移転し、現在はイリノイ州オークブルックにあります。

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  • Q. ライオンズクラブに女性が入会出来るようになったのはいつからですか?

     1987年からです。
     国際会則で規定されている会員資格は、長い間「青年男子」となっていました。1985年秋の国際理事会で、「男子」の文字を削除し女性にも門戸を開放しようという案が承認され、86年のニューオーリンズ国際大会の代議員投票に会則改正が諮られましたが、賛成票が3分の2に満たずに否決。翌87年の台北国際大会で可決されました。
     91年には世界で最初の女性の地区ガバナーが、99年には国際理事が、そして2018年には国際会長が誕生しました。
     日本では、91年に最初の女性地区ガバナーが、2022年に国際理事が誕生しています。

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  • ライオン誌2007年11月号「THEME」


  • ■奉仕活動について


    Q. アイバンクとライオンズクラブの関わりについて教えてください。

     日本では、ライオンズクラブがアイバンクや献眼運動の先頭に立ち続けています。
     1958年、「角膜移植に関する法律」が公布され角膜移植手術が公認されたこの年、原勝巳302地区ガバナーが岡山労災病院に死後の献眼を申し出、実質的に日本での登録第1号となりました。
     日本で最初のアイバンクは1963年、慶応大学病院と順天堂大学病院に設立されました。ライオンズクラブも活発なアイバンク推進運動を展開していきます。64年には東京の六つのライオンズクラブが献眼運動の推進を目的としたライオンズ・アイバンク協会を発足しました。他にも京都ウエスト ライオンズクラブは65年にPR映画を製作、静岡県小山ライオンズクラブは地元小山町で粘り強い啓発活動を続け、亡くなった町民の4人に1人が角膜提供をするまでになりました。当初から献眼運動に精力的に取り組んできた静岡県・沼津ライオンズクラブは、67年には全国初のアイバンク登録者大会を、68年には県内の全ライオンズクラブと共にアイバンク運動推進協議会を、そして71年には第1回アイバンク運動全国大会を開催しました。更に、全国各地でライオンズ主導によるアイバンクが相次いで設立されていきました。

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  • ライオン誌ウェブマガジン「歴史」
  • 公益財団法人日本アイバンク協会(外部リンク)

  • Q. 日本のライオンズはいつ頃から盲導犬事業に取り組んでいますか?

     日本のライオンズクラブが盲導犬に関する事業に取り組み始めたのは、東京オリンピックが開催された1964年頃のことです。この年、社団法人日本動物福祉協会は、東京霞ケ関ライオンズクラブの会員だった協会幹部の提案により盲導犬学校委員会を発足させました。
    1967年に財団法人日本盲導犬協会(現・公益財団法人日本盲導犬協会)が設立。初代理事長を始め多くのライオンズ会員が理事に名を連ね、全国のライオンズクラブから寄金が寄せられました。
    以来、盲導犬育成のための募金やPR、盲導犬となる子犬の飼育奉仕(パピーウォーカー)などに多くのクラブが協力しています。

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  • ライオン誌ウェブマガジン「歴史」
  • 公益財団法人日本盲導犬協会(外部リンク)


  • Q. 多くのクラブが献血推進に取り組むようになったのはいつ頃からですか?

     日本では1952年に健康な人から無償で血液を提供してもらう血液銀行が開設されましたが、血液を買う民間の商業血液銀行があったため、1960年になってもほぼ100%が売血で、献血はごくわずかなものでした。転機となったのは1964年、ライシャワー駐日アメリカ大使が暴漢に刺され、輸血の際に血清肝炎を併発した事件で、これは国会でも取り上げられ、献血受け入れ体制の整備が進められることになりました。
     日本のライオンズは、1965年に302W-4地区(山口県、島根県、広島県)が年次大会で「献血運動・花いっぱい運動」をアクティビティ・スローガンに採択したのを皮切りに、東京秋葉原ライオンズクラブが66年の結成以来献血をメイン事業とし、75年にはラジオ、テレビで献血を訴えるテレビ・コマーシャルを放映するなど、日本各地のライオンズが献血推進に大きく貢献しました。
     80年代に入ると成分輸血への切り替えが進み、1980年代末には全輸血量の約9割が成分輸血で賄われるようになりました。一方で薬害エイズ問題によって、世界の血漿の3分の1を消費し、しかも95%を輸入に頼る日本の血液事業のゆがみが浮き彫りになりました。厚生省が血漿(けっしょう)の国内自給を提唱する中で、京都平安ライオンズクラブの尽力で初の大型採漿ルームが京都市に開設されました。成分献血運動推進の動きは盛んになり、日本各地のライオンズクラブに波及していきました。
     半世紀以上にわたり、献血事業は全国のライオンズクラブが取り組む、日本ライオンズの主要な活動となっています。1989年には日本赤十字社が昭和天皇のご遺金を基に献血推進賞を創設し、日本ライオンズ(ライオンズクラブ国際協会330~337複合地区)が第1回受賞の栄に輝きました。

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  • ライオン誌ウェブマガジン「歴史」
  • 日本赤十字社(外部リンク)


  • Q. ユースキャンプ及び交換(YCE)事業が日本発祥というのは本当ですか?

     はい、その通りです。1961年に兵庫県神戸市のライオンズとアメリカ・カリフォルニア州のライオンズが始めた「日米夏季学生交換計画」がその発端となっています。この時は日本人学生9人とアメリカ人学生13人が、現地のライオンズの家庭にホームステイしました。これがその年の国際理事会で話題となり、62年に国際協会が正式な国際プログラムとして青少年交換(YE)事業を導入しました。
     また、さまざまな国籍の青少年がキャンプ生活を通じて交流するユースキャンプは63年にスウェーデンのライオンズクラブが始めたもので、74年に国際理事会で採択されました。2007年にこの二つが統合され、現在のYCEとなりました。
     参加した学生たちはホスト家庭で家族の一員として日常生活を送る中で、地域青少年や地域社会と触れ合う機会を持ったり、ライオンズが企画したキャンプや行事、社会見学などに参加したりします。

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