獅子吼 能登半島地震被災地支援

能登半島地震被災地支援

令和6年能登半島地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

今年の元日の夜、私たち戸田ライオンズクラブのメンバーは能登半島地震の被災地のことが気がかりで、新年のあいさつどころではなくなっていました。というのも以前、当クラブ前会長の息子さんが日本航空高等学校石川に入学したことから、当クラブメンバーの数人が能登を訪ねた折、輪島ライオンズクラブのメンバーにお会いしたことがあったのです。「輪島の皆さん、大丈夫かなぁ。齋藤さん、安否を含めて何か分かったことがあったら教えて!」と言われ、SNSやアラート活動でつながりのあった仲間に連絡したことから、当クラブの被災地支援活動は始まりました。

最初に支援のために輪島を訪れたのは1月24日。災害級の大雪警報が出ていた日でした。日本各地から能登町に集まったライオンズの仲間が炊き出しをしていると知り、参加することにしたのです。能登町に向かう前に輪島を訪れ、今必要な支援物資として事前に確認していた、無洗米、水、災害用トイレ、ガソリン携行缶などを輪島ライオンズクラブの小森紀史会長に届けました。この前日になってようやくクラブメンバー全員の無事が確認出来たものの、市外に避難されているメンバーが半数以上とのこと。ご自身の仕事も従業員の雇用も先が見えない中で、会長であるがゆえに窓口となって、初対面にもかかわらず応対してくださいました。まだライオンズからの支援もどのように受ければよいか混乱しているような大変な状況の中で、ご自分の会社事務所でインスタントコーヒーをいれ、現状について話を聞かせてくださいました。

この後、能登町での炊き出しに参加。能登町役場にも支援物資を届けました。あまりに大きな被害を目の当たりにし、被災地の方たちにどう声をかければよいのか、どのような支援が出来るのか、分からなくなってしまいました。

そんな初訪問の様子を、戸田ライオンズクラブの例会で、現地の状況をスライドプロジェクターで映しながら報告しました。これを見た多くのメンバーからは、「すぐに何かしないと! 支援金を集めよう!」「現地に行って出来ることをしたい!」と声が上がり、すぐさま約62万円という多くの寄付が集まりました。その後、クラブメンバーと私の息子も一緒に、炊き出しをしているライオンズのチームに合流しながらの支援活動が始まりました。

必要な物はどんどん変化するため、その都度現地のメンバーに確認しながら支援物資を用意して運びました。最初はとにかく水、ガソリンとその携行缶。そして災害用トイレ。これはいまだに需要が高いものです。

2月下旬になると、食事が非常食ばかりになりがちなことを考慮して、フルーツやビタミンジュースなどを届けました。物資の調達には、集まった支援金やメンバーの事業所に置かれた募金箱の浄財などを活用しました。3度目の訪問からは、行きは支援物資をいっぱいに詰め込んでいた車が、カラで帰るのはもったいないと、地元の酒店で日本酒を購入し、支援に協力してくださった方たちにお礼として渡すようになりました。また、戸田市内の飲食店に能登のお酒を買っていただき、店で提供したり、販売したりしていただきました。被災地に関する報道が減るにつれて募金も少なくなってきた頃で、日本酒の販売を通じて協力を募るようになりました。

こうした経緯から、当330-C地区(埼玉県)の年次大会でも能登支援物産展を開催。地区内メンバーから多大なる協力を頂き、売り上げは70万円にも上りました。

4月になると仮設住宅に入居したり、避難所から輪島に戻り始めたりする方が少しずつ増え、支援物資や支援の方法が少しずつ変化してきたように感じました。災害ボランティアが入り始めたので、その方たちの水や食料品といった支援や、再開した地元店舗での消費拡大に力を入れるようになりました。被災地の人々が、前に進み始めているのも伝わってきました。ある時、その日にオープンしたおそば屋さんで食事をしていると、「久しぶりに生ビールを飲んだ。うまいなぁー!」というお客さんの声が聞こえてきました。「小さな喜びを見付けて前に進もうとされているのだなぁ」と、こちらもうれしくなりました。

4月下旬に訪問した時には、こいのぼりが泳いでいるのを見ました。長い間置かれたままになっていた門松がなくなり、こいのぼりに代わったことで、止まっていた時が再び動き出したように感じられました。とはいえ、復旧・復興は途に就いたばかり。輪島だけでなく、珠洲や、孤立地域など、支援を必要とする地域はまだまだあります。私たちはこれからも、その時々のフェーズに合った支援を続けてきたいと思っています。
 
(2010年入会/50歳)
 
2024.06更新