歴史
平和への一歩
平和ポスター・コンテスト
1988年~
ライオンズクラブ国際協会が全世界で展開するプログラム、国際平和ポスター・コンテストは1988-89年度にスタートし、2020-21年度で第33回を数えた。88年3月にアメリカ・ニューヨークの国連本部ビルで開かれた国連ライオンズ・デーで、ブライアン・スティーブンソン国際会長(当時)が実施を提案したもので、「ライオンズクラブ国際協会の目的」の第1項「世界の人びとの間に相互理解の精神をつちかい発展させる」を推し進めるという大きな意味を持つコンテストだ。
コンテストは世界各地のライオンズクラブがスポンサーとなって開催し、子どもたちにポスターを描くことを通じて平和について考えてもらう。参加対象は11~13歳の児童で、地元の学校や団体などに呼び掛けて作品を募集。クラブ、地区レベルの審査を経て、複合地区レベルで選ばれた優秀作1点がライオンズクラブ国際協会での最終審査へ進む。ここで、芸術、平和、若者、教育、マスコミの各分野から選ばれた審査員が、作品の独創性、芸術性、テーマの表現力により、入賞作品24点、更にその中から大賞作品1点を決定する。コンテストの表彰式は、国連ライオンズ・デーのプログラムの一つとして行われ、大賞作品の作者はここに招待される。また、ライオンズクラブ国際大会の会場では大賞及び入賞作品が展示され、大賞受賞者によるサイン会が行われる。
第1回のコンテストには、49カ国、10万人以上の子どもたちが参加した(現在では75カ国程、約35万が参加)。日本も初回から参加し、4点が入賞作品に選ばれた。大賞を受賞したのは、レバノンのベイルートで生まれ育った少年、ムスタファ・エル・タウォクジ君だ。当時のベイルートは、75年から続く内戦の最中にあった。「僕が生まれた時からずっと、戦争が続いています」と言うムスタファ君。彼の家と学校は飛行場と難民キャンプの間にあり、町の中を通り抜ける兵士たちを見ながら、戦争のあらゆる局面を体験した。彼はベイルート美術研究会に所属しており、将来は建築を学びたいと夢を語った。最終審査員の一人は、「この作品が、悪夢のような現実を目の当たりにしてきた少年によって描かれたと聞いた時、心からの驚きを禁じ得なかった」と話している。ライオンズクラブのオースティン・P・ジェニングス国際会長(当時)は国連ライオンズ・デーの中で行われた授賞式の席で、「人種、民族、文化遺産の違いを超えて、互いに理解し、思いやり、友情を交わし、助け合う時、平和がもたらされます。その努力の一端として、国際平和ポスター・コンテストの構想が生まれました。平和を頭に描きながらその大切さを訴え掛けた応募者一人ひとりが、立派な少年平和大使なのです」と発言した(『ライオン誌』89年7月号)。
これまでの平和ポスター・コンテストでは、ほとんどの回で日本から1~数点の入賞作品が選ばれ、大賞も2回受賞している。大賞受賞者の一人は第4回の中島由紀さん(スポンサー:兵庫県・三木中央ライオンズクラブ)、もう一人は第12回の中館理子さん(同:東京荏原ライオンズクラブ)だ。由紀さんが国連本部での授賞式に招かれた時の様子を、同行した三木中央ライオンズクラブ会長が報告しているが、式の他にも地元ニューヨークのライオンズクラブと交流したり、国際会長主催の晩餐(ばんさん)会に出席したりと、有意義な時間を過ごしたようだ(『ライオン誌』92年5月号)。また理子さんの方は、ハワイ・ホノルルで開催されたライオンズクラブ国際大会に招かれた際、大賞の賞金を真珠湾にある戦艦ミズーリ記念館へ寄付している(『ライオン誌』2000年8月号)。
日本全体では毎年数万人の児童が平和ポスター・コンテストに参加しており、スポンサーとなったライオンズクラブはそれぞれに表彰したり絵画展を開催したりするなど工夫を凝らしている。優秀作品12点でカレンダーを作成した愛媛県・今治ライオンズクラブは、コンテスト協力校の校長からある男の子の話を聞いた。その子は以前は教室の床を壊したり、先生の言葉に耳を貸さないような面もあった。が、コンテストに参加することにしてからは一生懸命に絵を描き、分からない国旗について先生に相談するようになり、朝早く登校して「先生、あの旗が見つかったよ!」とうれしそうに報告するなど、人が変わったような学校生活を送るようになったという。この子の作品は優秀作に選ばれ、カレンダーを飾った。また、兵庫県・神戸長田ライオンズクラブは入賞作を描いた子の母親から、「うちの子は勉強でも運動でも賞というものをもらったことがありませんでした。初めてもらった表彰状を自分の机の上に飾っています。あれから勉強にも力を入れるようになりました」と感謝され、活動がそのように良い影響をもたらしたことに感激したという。
毎年平和ポスター・コンテストに参加してきた岩手県・陸中山田ライオンズクラブは、そのつながりを生かし、東日本大震災の翌年にコンテストの協力校に呼び掛けて、子どもたちが町の復興を願って描く絵画展を企画した。山田町は津波とその後に発生した火災で壊滅的な被害を受けたが、集まった作品370点には震災前の日常であったカキ養殖に汗を流す漁師の姿や、高層ビルが立ち並ぶ近未来的な街並みなど、さまざまな未来の山田町が描かれ、人々を勇気付けた(『ライオン誌』12年5月号)。
戦争の終結、楽しい学校生活、当たり前の日常など、さまざまな平和がある。国際平和ポスター・コンテストもさまざまな形で、平和へ近づくための一歩となっている。
2021.03更新(文/柳瀬祐子)
*ライオンズクラブ国際協会公式ウェブサイトで、国際平和ポスター・コンテスト歴代大賞受賞作品がご覧頂けます。