歴史 一期一会:全国身体障害者
スポーツ大会

一期一会:全国身体障害者スポーツ大会
長野県で開かれた第14回全国身体障害者スポーツ大会の開会式→『ライオン誌』79年1月号

全国身体障害者スポーツ大会は、全国の身体障害者が一堂に集い、スポーツを通じて体力維持と機能回復に努力してきたその成果を発揮するものだ。自らの障害を克服し、たくましく生きていく能力を育てること、また開催地となる地元都道府県民の身体障害者に対する理解を深めることを目的としている。同スポーツ大会のきっかけとなったのは、1964年の東京オリンピック後に開かれた東京パラリンピックだ。これに刺激を受けた人々が、こうした大会を日本国内でも開催していこうと、毎年各都道府県の持ち回りで行われていた国民体育大会の後に、その設備を活用して開くことを決定。65年に第1回岐阜大会が挙行された。回を重ねるごとにその成果は高まり、選手とボランティア、そして市民が、極めて自然に温かい心で触れ合う姿は、この大会ならではの光景となっていった。

日本ライオンズが合同奉仕事業として支援を始めたのは、78年の第14回長野大会からだ。それまでも開催地となる地元ライオンズがそれぞれに協力していたが、この時はライオンズクラブの334-E地区(長野県)が日本の全地区に協力を呼び掛け、全国の会員が一人100円を拠出し日本ライオンズ全体でバックアップしていくことになった。同大会は全国持ち回りで開催され、どの地区にとっても我がこととして取り組めることから、翌年以降も会員一人100円の協力金が集められた(96年からは各地区の判断で拠出)。

長野大会では陸上、水泳、卓球、アーチェリー、車いすバスケット、盲人野球が行われ、82年の第18回島根大会からは聴覚障害者バレーボールが加わった

長野県・下諏訪ライオンズクラブの会員・市瀬正はこの長野大会に参加し、その感動を「友愛の祭典開かる」(79年1月号)として記している。大会が行われた10月28、29日は前日まで続いていた秋晴れが一転、関係者の祈りもむなしく、両日ともあいにくの雨に見舞われた。が、雨雲も大会のすばらしさに影を落とすことはなかった。参加者数は選手と役員を合わせて過去最高の1529人。開会式では、北海道から順次南へ各都道府県の選手団が入場。車いすを操り、足を引き、松葉づえをつき、袖口から義手をのぞかせた選手たちが、キラキラと瞳を輝かせ熱気あふれる行進を繰り広げた。超満員のスタンドでは1万7000人の傘の波が揺れ、ロイヤル・ボックスでは第1回大会から臨場されている皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)が、心からの拍手を盛んに送られた。皇太子殿下は、
「この大会も回を重ねるごとに、多くの人々の深い理解の下に、一段と充実してきて大変うれしく思う。深く敬意を表したい。身体障害者の人々が一人でも多くスポーツに親しむことにより、心身の健康を補助し、明るく希望をもって未来へと進んでいかれ、楽しい思い出をつくってほしい」
と励ましのお言葉を述べられた。

ライオンズクラブからは1260万円余が集まり、全額が大会費用として長野県に贈呈された。県はこれを、身体障害者用リフト付きバス1台と、車いす30台、参加者やボランティアが身に着ける友愛の鈴の購入、会場の設備費用などに充てた。大会終了後、車いす等は県内の施設で活用された。他にも地元ライオンズクラブのメンバーたちは、駅頭での選手たちの出迎えや見送り、主会場や周辺観光地、それらに通じる道路周辺での清掃や案内、地域の肢体不自由児やその家族を大会に招待するなど、さまざまな活動を繰り広げ大会を側面からも力強く支えた。

10月29日に行われた長野大会閉会式では、全盲の選手・竹花美智緒さんが、
「この2日間の大会は、私たち一人ひとりの心に強く生きる希望と勇気を与え、友愛の輪を広げてくれました。皆さんとお別れしても、心に燃えた友愛の日は生涯消えることなく燃え続けるでしょう。そして、お互いに励まし合って明日を築きましょう」
と、別れの言葉を述べた。長野盲学校の生徒117人による合唱が雨のアルプスにこだまし、感動の中での閉幕となった。

皇太子ご夫妻(現・上皇ご夫妻)は第1回大会からご臨場になり、選手たちと交流された

全国身体障害者スポーツ大会には、より多くの人に機会を与えるために、選手は生涯に一度しか参加出来ないという決まりがあった。生涯に一度の舞台で、選手たちは懸命に技を競い力を尽くす。選手の4倍の人数に上るボランティアも、数百人もの手話通訳者も、ライオンズ・メンバーも、そして観客もまた、一期一会の支援・応援に全力を注ぐのだ。

81年に滋賀県大津市で開催された第17回大会は、国連の定めた国際障害者年に当たることもあり、その記念大会としてアメリカ・ミシガン州、バングラデシュ、ビルマ(現ミャンマー)、インド等17カ国から99人の選手を招き、国際色豊かな大会となった。陸上60m競走(車いす)に出場したインドのアガワル選手は、他の選手たち全員がゴールした時点でまだ5mしか進んでおらず、その後はたった一人の力走となった。全ての力を車いすの両輪に込めて進み、止まり、また進んだ。スタンドからも、競技中のグラウンドからも大歓声と大拍手が沸き上がった。記録は4分38秒。筋萎縮症と闘う28歳の青年の挑戦だった。

87年の第23回全国障害者スポーツ大会は、直前に開かれる国民体育大会が全国を一巡し、最後の県となる沖縄県が会場となった。東南アジア8カ国からの43人を含む過去最高の2500人の大選手団が来沖。ボランティアも1万1000人に上り、多くの家庭が民宿として選手団を受け入れた。事前には食生活の違いなどを心配する節もあったが、ふたを開けてみれば朝な夕なの心の交流がそんな憂慮を吹き飛ばし、選手と家族のほほ笑ましい歓待風景が連日新聞をにぎわせ、選手たちは沖縄の人々の温かいもてなしに最大級の賛辞を贈った。

全国身体障害者スポーツ大会は2日間という短い会期である。しかし、閉会式では毎年、選手もボランティアも入り乱れて別れを惜しみ抱き合って涙を流し、「生涯忘れられない日」と誰もが言うのだった。

2020.07更新(文/柳瀬祐子)

*全国身体障害者スポーツ大会は、01年に全国知的障害者スポーツ大会と統合されて全国障害者スポーツ大会となり、毎年夏季国体後に開催されている