歴史
ボーイスカウトの祭典
世界ジャンボリーを支援
1971年
世界中のボーイスカウトが集う「世界ジャンボリー」。4年に1回開催され、ボーイスカウトのオリンピックとも呼ばれる。第13回世界ジャンボリーは1971年8月2~10日の9日間にわたり、富士山のふもと、静岡県富士宮市の朝霧高原で開催され、世界85カ国から2万数千人もの青少年が参加した。日本での世界ジャンボリー開催は初めてのこと。くしくもこの年、日本ライオンズは「青少年に愛と希望を」というスローガンを掲げており、もともと各地域のライオンズクラブが地元のボーイスカウト団に活動資金や備品を贈呈したり、ライオンズの奉仕活動に参加・協力してもらうなどのつながりがあったことから、この祭典に対して全日本体制で支援することを決定。世界ジャンボリー協力委員会を立ち上げ、全国のライオンズ会員から合計約9300万円の協力金を得て乗り出した。
ボーイスカウト運動は1907年、イギリスのロバート・ベーデン・パウエル卿が主催した小さなキャンプからスタートした。子どもたちが野外体験を通じて自立心や協調性、リーダーシップを身に着けることを目指したものだ。早くもその翌年には日本にボーイスカウト運動が伝わり全国へと広まって、22年に「少年団日本連盟」が設立、ボーイスカウト国際事務局に正式加盟した。現在、世界スカウト機構には170の国と地域が加盟し、4000万人以上のスカウトが活動している。
ジャンボリーの期間中、少年たちはテントを張ってキャンプ生活をする。71年当時、ボーイスカウト日本連盟副理事長で東京池袋ライオンズクラブの会員でもあった池留三はこれを、「小さな町が出現する光景は他では見られない一大景観である」と表現した。ジャンボリーは単なるお祭りではなく、世界中のスカウトたちが交歓し、スカウト兄弟としての友情を深め、相互理解を深める機会なのだとも。そして、朝霧高原でのジャンボリーのテーマは「For Understanding(相互理解)」だ。
「このテーマは参加者が互いに理解し合うだけでなく、この年、世界のスカウトが相互の理解に努めるという重大な意義を持つ。外国から参加したスカウトたちには日本の良い印象を持って故国に帰り、楽しい思い出と共に日本の正しい理解者になってもらいたい」(池)
日本初開催の世界ジャンボリーの会場が朝霧高原になった理由は、日本を象徴する山・富士山のふもとであること、そして世界に誇る特急列車・新幹線が通っていること。更に朝霧高原は富士の雄姿を背景に草原や林など豊かな自然が広がり、特にジャンボリ-が開催される8月には輝くような濃い緑に覆われる。世界スカウト機構の広報委員会が会場視察に訪れた際には、「このジャンボリーをグリーン・ジャンボリーと呼ぼう」と言ったほどだ。日本ライオンズはこの祭典のために、プールを建設し、2437張のテントを寄贈。赤、青、黄の3色のテントが張られると、富士西麓におとぎ話のように美しい町が出現した。
色とりどりのテント村では、いろいろな国、いろいろな人種のボーイスカウトが混ざりあって一緒に生活した。言葉は通じなくても、友情を介在させれば問題無し。自分たちで決めることになっていた1日のスケジュールも、皆で話し合って決定した。一緒に訓練に励み、運動し、食事を作り、遊んで、相互理解を深めた。
会場周辺のライオンズクラブからは連日会員が会場に足を運び、協力した。ある日、ライオンズ会員の近くを通りかかった韓国のボーイスカウトの一団がわざわざ立ち止まり、「ライオンズの皆さん、ありがとうございます。このような日本ライオンズの立派な仕事を、韓国に帰ってみんなに伝えます」と言いに来てくれた。会場で使用されたテントの大半はライオンズが寄贈したもので、ライオンズのマークが入っている。少年たちはジャンボリーでの経験がよほど楽しく有意義で、あふれ出る感謝の気持ちを支援者たちに知ってもらいたかったのかもしれない。ジャンボリー終了後にテントは回収、日本各地のライオンズクラブへ分配され、それぞれの地域に合った奉仕活動の中で再利用された。
会期中にはライオンズクラブのロバート・J・アプリンガー国際会長も視察に訪れ、キャンプのすばらしい内容と日本ライオンズの大々的な支援体制を称賛した。各国のボーイスカウトの指導者、役員の中にはライオンズ・メンバーが何人もおり、会長の知人もいて、顔見知りもそうでない人も共に親しく交流した。
大自然に抱かれたグリーン・ジャンボリーでは、ボーイスカウトもライオンズもその他の支援者も、あらゆる違いを超えて、ただ平和という同じ夢を求める人々による理想郷が具現化されていた。
2020.03更新(文/柳瀬祐子)