歴史
ポリオの後遺症に
苦しむ人々を支援
1960年~
「ポリオ=急性灰白髄炎」は、口から入ったポリオウイルスが腸の中で増殖、血液を通って神経細胞に到達する感染症である。感染から2週間ほどで発熱するが、初期症状が風邪と似ているために誤診され、手足がまひしたり呼吸中枢が冒されたりする症状が出て初めてポリオだと分かることも少なくなかった。ウイルスは発病しない感染者の体内でも増殖して排出されるので、本人も気づかぬうちに病気を拡散する。大人も感染するが、子どもの患者が多かったため、かつては小児まひとも呼ばれた。
古代エジプトの壁画や縄文時代の人骨にポリオ罹患者と思われるものが残っていることから、4000年前頃には既に人類の間に存在したようだ。しかし大規模な流行が知られるようになったのは20世紀以降のこと。文明が発展、下水処理設備が整うなど衛生環境が良くなり乳幼児死亡率が低下すると、相反してポリオが流行した。乳幼児期に免疫を得る機会が減るためと考えられている。日本で患者が増えたのも戦後の復興が進んできた頃で、1956年に年間1500人ほどだった罹患者数は、3年後の59年には約3000人に、翌60年には5000人を超える大流行となった。
ポリオ対策には感染予防と、後遺症が残った人々への支援がある。前者をけん引したのは日本中の母親だった。ポリオを予防するにはワクチン摂取しかない。しかし政府がアメリカから輸入出来た不活化ワクチン数万人分では焼け石に水だった。アメリカでは50年代にポリオが大流行し既に終息に向かっていたものの、大量に輸出出来るほどのワクチンは残っていなかったのだ。感染者が急増する中、今日にも我が子が感染するかもしれないという不安に駆り立てられた母親たちが、十分な在庫があるソ連からの生ワクチン輸入を求めて大運動を巻き起こした。ウイルスの病原性を無くした不活化ワクチンに比べ、病原性を弱めて作られる生ワクチンはまれにポリオに似た症状を引き起こすことはあったが、経口投与のため接種が簡単で、短期間で強い免疫が出来る利点がある。とはいえ、東西冷戦真っただ中の時代、政府の腰が重かったことは想像に難くない。それでも、組織的運動など縁が無く家の中で家族を守ってきた多くの母親が、子どものために表に出て声を上げ、世論を巻き込み、とうとう国を動かした。61年、政府はソ連等から1300万人分の生ワクチンを緊急導入、乳幼児と児童を対象に全国一斉接種を実施した。小さな砂糖菓子に入ったワクチンは、その甘さで子どもたちを喜ばせたという。これにより罹患者数は一気に減少。63年からは乳児への定期接種が始まり、日本では80年の1例を最後に野生ウイルスによる新患者は出ていない。
日本ライオンズは後者、ポリオの後遺症に苦しむ人々への支援に尽力した。合同の事業としては60年、ポリオの大流行を背景に、アメリカ・シカゴにあるライオンズクラブの国際本部を通じて人工呼吸器の一つである「鉄の肺」の購入を決定した。鉄の肺は、患者の首から下を気密タンクに入れ、モーターでタンク内の圧力を下げたり戻したりすることで患者の胸郭を動かし呼吸を促す。当時は呼吸筋がまひした患者には最も有効な対処法とされていた。そこで60年にライオンズクラブ国際協会のベア・スタール第1副会長が日本を公式訪問するのを記念して、厚生省に鉄の肺を2台寄贈したのである。その後、小児まひのまん延により鉄の肺の必要数も増え、マスコミによる鉄の肺募金の呼び掛けは全国的に高まっていった。
日本各地にある個々のライオンズクラブも、それぞれの地域でポリオ患者支援に取り組んだ。地元での募金活動や寄付、病院へのポリオ患者用ベッドの寄贈等さまざまだ。福岡県の小倉ライオンズクラブは61年、小倉市立病院にさまざまなポリオの治療器具を寄贈した(1961年10月号)。ポリオによるまひを患った子の母親たちや小児麻痺対策協議会からの強い要望による、患部に応じた15種類の機械、平行棒、肋木(ろくぼく)、おもちゃなどがある。それまで同病院では外来患者にマッサージや低周波療法を受けさせる程度だったが、ライオンズからの寄贈を受けて小児まひ治療室を新設、本格的な運動療法に取り組むことになった。
岡山県の笠岡ライオンズクラブは、幼児期にポリオにかかり体の自由が利かなくなってしまった中学生に車いすを贈った。小学校入学から毎日、父親が手製の手押し車に乗せて彼を登下校させてきたが、2kmも離れた中学校に通うのが体力的に苦しいという話を聞いたためだ。「新車」は軽く、方向転換も自由だととても喜ばれた。
広島県の能美島ライオンズクラブは、地元小学校の5年生を支援した(1963年3月号)。子どもたちは、4年生の時にポリオにかかり、つらい闘病を続けている級友の和男君が1日も早く全快するようにと、毎朝牛乳を贈ることをクラス会で決定。皆で毎月10~15円を出し合い牛乳屋から配達してもらう他、毎月4、5人が交代で花束を持って病床を訪れ、学校での出来事を話して聞かせ励ましていた。和男君は7人兄弟の末っ子で、発病の前年に父親が病死したため母親が行商をしながら看病をしていた。この話に胸を打たれた能美島ライオンズクラブのメンバーたちは、子どもたちの自発的な行動は尊重して見守りつつ、和男君の療養費と、級友たちに学用品を贈呈して応援したのである。
2019.10更新(文/柳瀬祐子)