フォーカス 長崎を最後の被爆地に
語り継ぐ平和の願い

長崎を最後の被爆地に 語り継ぐ平和の願い
毎年8月9日、平和公園にある平和祈念像の前で平和祈念式典が執り行われる

僕は1998年から長崎原爆の語り部として微力を捧げてきました。語り部は公益財団法人・長崎平和推進協会の継承部会に属し、今は50人ほどが活動しています。全ての被爆者に共通するものと思いますが、被爆体験は思い出すのも辛い過酷な体験で、それまでは人に語ることはありませんでした。しかし、被爆者無き時代が近づいてくるにつれ、肉体的にも精神的にも被爆体験の密度の濃い人間だからこそ語り継ぐ責任と義務があると考えたのです。

長崎に原爆が投下された時、僕は13歳で旧制県立瓊浦(けいほ)中学校の1年生でした。父は国民学校5年生だった11歳の時に病気で亡くなり、母と2人で暮らしていました。あの日、8月9日は暑い日で、期末テストが終わって自宅に帰ると、上半身裸になって汗を拭いていました。そこに聞き慣れたB29のにぶい爆音がしばらく続いたかと思うと、ものすごい急降下の爆音に変わり、続いて稲妻のような閃光が走ったのです。とっさに身を伏せた瞬間、僕は巨大な力に吹き飛ばされました。気付いた時には倒れた家の下敷きになり、後頭部や背中には割れたガラスの破片が刺さって生ぬるい血の感触がありました。そのうち、人の話し声で近くで火事が出たらしいことが分かり、力を振り絞ってやっとの思いで抜け出しました。必死で家の裏手の山へ駆け登ると、そこには避難者があふれ、重軽傷者はもとより既に息絶えた人も多く、文字通り生き地獄の様相でした。ここで僕は、近所の人から母の死を聞かされました。母は近くの家の玄関で立ち話中、爆風の直撃を受けて即死だったそうです。僕はそれを聞いてもただ死んだように身を横たえているしかありませんでした。

爆心地から約500m地点にあり、原爆によって全壊した浦上天主堂は、1959年に再建された

その日の夕方、僕たち親子を探しにきた叔父さんに会うことが出来、一緒に防空壕で夜を明かしました。僕の身体はガラス片による出血と下痢のために弱ってきて、このまま長崎にいては治療も受けられないと、叔父さんに連れられて市外に出ることになりました。炎天下の道を歩いて駅へ向かう途中、見渡す限り焼け野原となった浦上一帯にはまだ熱気が残り、おびただしい数の無残な黒焦げ死体が転がっていました。汽車で諫早に着き、小学校に置かれた救護所で診察を受けると、即座に赤痢だと言われました。その時はまだ、医師にも原爆症というものが分からなかったのです。この時に赤痢と診断されたのが、僕にとって幸運でした。そのまま長崎に留まっていたら、十分な治療を受けられず、多分助からなかったと思います。入院後は連日高熱と血便が続き、いよいよここで死ぬのかと思いましたが、手厚い看護のおかげで快方に向かうことが出来ました。

諫早の病院を退院した後、長崎の母の実家に身を寄せ、学校に戻ったのは11月始めのことでした。爆心地から南南西800mの所にあった瓊浦中学校の校舎は全壊し、別の中学校に仮住まいしていました。学友と再会した喜びは今も忘れることは出来ません。しかし、市内の中学校で最も被害が大きかった瓊浦中学校では、全校生徒1200人の3分の1が犠牲になり、共に入学した1年生300人のうち114人は学校に戻ることはありませんでした。その中にはどこでどのような最後を遂げたのか、今日まで分からない仲間も少なくありません。

平和公園にある「平和の泉」。噴水前の碑には、水を求めてさまよった少女の手記が刻まれている

語り部の活動を始めて8年目の2006年、アメリカ・ネバダ州ラスベガスにある核実験博物館で開かれたヒロシマ・ナガサキ原爆展で講話を行いました。被爆の実相と平和の大切さを世界に訴えようと、その前年から行われていた海外原爆展の2回目に派遣されたのです。僕はアメリカ人の聴衆から「先に真珠湾攻撃で戦争を始めたのは日本ではないか」といった声が上がるのではないかと緊張していました。そんな不安をよそに、初日の会場は立ち見が出るほどの盛況で、人々の関心の高さを感じました。講話の最後を「長崎を核兵器による最後の被爆地に。これが長崎市民の切なる願いであり、全世界に対するメッセージです」と締めくくると、全員がスタンディング・オベーションで応えてくれました。

最近は長崎を訪れる外国の若者たちに講話をする機会も増えてきました。このところ多いのは、外務省の対日理解促進交流プログラム、JENESYS(ジェネシス)で来日するアジア地域の大学生を中心とする若者たちです。また、長崎に来られない国内外の人たちにインターネットを使って被爆体験を伝える「ピースネット」活動もあります。テレビ画面を通じて講話を行い、質問にも答えるのです。昨年度は小学校など国内17件、海外向け5件が実施され、私もロシア、ドイツの海外2件と国内1件を担当しました。

今年1月、JENESYS2018で長崎を訪れたインド、ネパール、パキスタンなど6カ国47人の若者に囲まれて

語り部として被爆の体験を語り聞かせるのは主に長崎を訪れる修学旅行生で、中でも多いのは中学生です。外国人に対する講話は、先ほどの「長崎を核兵器による最後の被爆地に・・」というメッセージで締めくくりますが、修学旅行生に対する講話では、学校での平和、家庭の平和、地域の平和など、身近な平和について話すようにしています。社会では今、いじめによる自殺や無差別の殺傷事件、幼児虐待など、身を切られるような痛ましい事件が多発しています。子どもたちには一日いち日を大切に生きること、そして、人は他人のおかげがなければ一日たりとも生きていけないということを伝え、平和と命の大切さについて考えてほしいと願っています。

2019.08更新(取材・構成/河村智子)


まるた・かずお:1932年2月、旧中国東北部大連市生まれ。旧制県立瓊浦中学校1年生の時に被爆。県立長崎東高校卒業後、90年まで地方公務員として勤め、その後特殊法人に勤務して97年に退職。1998年から公益財団法人長崎平和推進協会継承部会で長崎原爆の語り部として活動する。01年、長崎ベーシック ライオンズクラブ入会。