歴史
石川欣一:
日本ライオンズ誕生の立役者
1895~1959年
1959年8月7日、東京・青山斎場で、日本のライオンズクラブ誕生に深く関わり根付かせた立役者である石川欣一の葬儀が行われた。特定の宗教を持たなかった石川は、ライオンズ葬という形で弔われた。参列者は「ライオンズの歌」を歌い、録音された故人の声を聴き、焼香に代わりカーネーションの花を献花した。堅苦しい形式ばったものが嫌いだった故人にふさわしく、しめやかという言葉は当てはまらない華やかなものだったという。「ライオンズってぇのは面白くなくっちゃーね」が口癖で、酒を愛し、タバコを愛し、正義のためにはよく怒った。ジャーナリストであり随筆家、翻訳家、また多彩な趣味人でもあった。
石川欣一は1895年3月17日、東京に生まれた。父・石川千代松(1860~1935年)は動物学者で、進化論を日本で初めて紹介したことで知られる。母・貞子は法学者・箕作麟祥(みつくり りんしょう)の娘である。東京大学英文科を中退した欣一は、アメリカ・ニュージャージー州のプリンストン大学へ留学し、1919年に卒業。翌年毎日新聞社に入社、アメリカ、イギリス、ドイツで移動特派員、ロンドン支局長などを経て、43年に「マニラ新聞」の出版局長としてフィリピンに出向した。第2次世界大戦末期には米軍の攻撃を避けてルソン島山中に入り、45年9月、新聞報道関係者23人の先頭に立って投降した。
投降からその年の末に神奈川県浦賀に向けて出港するまで、石川は堪能な英語力を買われて収容所で通訳として過ごした。その経験を『比島投降記―ある新聞記者の見た敗戦』(46年)につづっている。ここで石川は、捕虜となった日本兵に対する米国兵のフェアーで成熟した態度に度々驚かされる。例えば酔った米兵が若い日本兵と石川に絡んできた時、別の米兵たちが酔った兵をいなして連れて行っただけでなく、ある少尉は石川に「すまなかったな」と詫び、別の中尉は酔った兵に憤慨した。石川は考える。
「どうして僕と何らかの交渉のある米国将兵は、こんなに善良な人ばかりなのだろう?」
石川欣一の翻訳書の一つに、アメリカの動物学者エドワード・モース(1838~1925年)による『日本その日その日』(1929年発行)がある。東京大学で教鞭をとっていたモースは日本のあらゆるものに興味を抱き、同著には髪型から衣食住、建築、土木、娯楽等々についてスケッチと共に記録。目に見えるものだけでなく、日本人の礼儀正しさ、勤勉さ、他者への思いやりなどに感嘆する。収容所で石川はモースの日本人に対する称賛と、フィリピンでの日本軍の行為を思い出し、また考える。
「日本人の特色は一度他国人に対すると全然失われ、野蛮なことが行われたのだろうか。/(日本は)精神的、人道的には徹頭徹尾敗北者であったのかもしれない」
帰国後の石川欣一は八面六臂の活躍を見せる。毎日新聞社出版局長、日本初のタブロイド判夕刊紙「サン写真新聞」社長を歴任。民主教育協会、日本翻訳者協会、日本ペンクラブ理事として名を連ねた他、趣味の分野では日本パイプクラブ会長、日本登山の会会長、東京スポーツマンクラブ会長も務めた。意外なところでは、小津安二郎監督の映画『お茶漬の味』(1952年)に、主人公が勤める会社の社長役で出演したこともある。
そんな石川欣一が特に熱量を注ぐものが登場する。ライオンズクラブだ。1951年秋、ライオンズクラブの国際理事会でフィリピンのマヌエル・J・ゴンザレス国際理事が、マニラ ライオンズクラブが親となり日本にライオンズクラブを誕生させることを提案する。当時、戦時中の日本軍の行為により、フィリピン国民の対日感情は非常に悪かった。そうした背景でのこの発言は驚くべきものであった。提案が通ると、ゴンザレス理事は日本人の友人、今村栄吉に打診の手紙を送る。今村は自身が所属していた「フィリピン友の会」の会長に相談、そこで同会常任理事の石川に準備委員長としての白羽の矢が立ったのである。当初、石川を始めフィリピン友の会では誰もライオンズクラブの何たるかを知らなかったが、学びながら会員を集め、52年3月に日本で最初の東京ライオンズクラブ結成にこぎつけた。石川はこの準備期間に、英語で書かれたライオンズクラブの標準版クラブ会則の日本語訳も完成させている。
モースが見たような日本人として、善良で寛容な世界各国の人々と、対等な立場で他者のために共に奉仕する。この機会を石川はどれほどうれしく思っただろう。東京ライオンズクラブは3月15日にライオンズクラブ国際協会に認証を受け、6日後の21日にホテル・テイト(現・パレス・ホテル)で認証式を開催。初代クラブ会長となった石川は同月31日、その日開局したばかりの日本文化放送協会(現・文化放送)のラジオ番組「書斎から」で、「うれしいニュース」という副題で東京ライオンズクラブ誕生について紹介している。我々日本人はフィリピン人から嫌われても憎まれてもやむを得ないのに、フィリピンから国際ライオンズクラブに入らないかという申し出があったこと、ホテル・テイトでの式典で日比両国の大きな国旗を交換した際には涙が出そうになって困ったことなどを話し、「世界一の優秀な民族だなどとうぬぼれるのはもちろん間違っていますが、我々日本人には本質的に美しいもの、いいものが、いくらでもあるのです。そしてそれを世界に貢献することが出来るのです」とまとめている。
日本のライオンズクラブは紆余曲折を経ながらも成長していった。1953年に日本ライオンズが302地区として設定されると、石川欣一は日本で最初の地区ガバナー(地区のリーダー)となった。59年には日本人初の国際理事に選出され、舞台は世界へと広がった。しかし理事就任からわずか1カ月後の8月4日、胃がんのため急逝。64歳だった。
2019.03更新(文/柳瀬祐子)
『お茶漬けの味』(1952年/小津安二郎監督)石川欣一出演シーン