フォーカス 世界有数の大会に成長した
飯塚国際車いすテニス大会

世界有数の大会に成長した飯塚国際車いすテニス大会

飯塚国際車いすテニス大会(通称ジャパンオープン)は1985年に第1回大会が開催され、今年で35回目となります。大会当初は障がいを持つ方の社会復帰や車いすテニス・プレーヤーの交流といったことが目的でした。しかし、回を重ねるごとに大会への認知度が高まり、世界から一流プレーヤーが参加するようになって、2004年には世界四大大会に次ぐアジアで唯一のスーパーシリーズに昇格。更に18年からは、障がい者スポーツとしては初めて天皇杯・皇后杯が下賜されるようになりました。

競技としての車いすテニスは76年にアメリカのカリフォルニアで始まり、日本には82年に紹介されました。その翌年、飯塚市にある「総合せき損センター(独立行政法人労働者健康安全機構)」で、脊髄(せきずい)損傷者のリハビリの一つとして車いすテニスが導入されました。飯塚はかつて炭坑で栄えた街ですが、その頃は炭坑災害などで脊髄を損傷した人が多く暮らしており、せき損センターが飯塚に設けられたのもそうした背景があったのだろうと思います。

前回大会準優勝者で、車いすテニス男子シングル世界ランキング第1位の国枝慎吾選手

車いすテニスは当初、せき損センターの体育館で行っていましたが、やがて本格的なコートで練習してみたいとなって、飯塚ローンテニスクラブに打診がありました。このテニスクラブは青少年育成のため、飯塚ロータリークラブの会員13人が出資して設立されたもので、私の父・前田公三もその一人でした。私は当時、ローンテニスクラブのインストラクターをしており、専務理事を務める父と一緒にせき損センターの方とお会いして話を伺いました。

今と違って障がいを持つ方が外に出て来られることは少なく、せき損センターはあっても、車いすの方を飯塚の街中で見掛けることはほとんどありませんでした。ましてや車いすの方がスポーツをされるという認識などない時代でしたが、父は二つ返事で依頼を受諾、クラブのコートを車いすテニスの練習に開放しました。更に翌年には九州車いすテニスクラブも発足し、山口や佐賀、熊本など他県からも車いすの方たちが練習に来られるようになりました。

車いすテニス女子シングル世界ランキング第2位で大会6連覇中の上地結衣選手

その後、車いすテニスクラブの皆さんから父に、大会を開催したいという相談がありました。そこで父は所属するロータリークラブに提案し、飯塚ロータリークラブの活動として車いすテニス大会を開催することが決まりました。しかも大会に向けて話をする中、海外では車いすテニスが盛んに行われ、強豪選手もいると聞き、どうせなら海外からも選手を招待しようという話に発展。こうして海外から14選手、国内64選手、合計78選手が参加して、第1回大会が開催されました。

大会後、選手たちから大会開催の継続を希望する声が寄せられたのですが、ロータリークラブは最初から1回限りの主催とされていたので、新たなスポンサー探しが始まりました。幸い第1回大会の成功を受け、実績を認めてくださった企業数社がスポンサーとなってくださることになり、第2回大会開催のめどが立ちました。そこで86年には日本初の車いすテニス協会となる九州車いすテニス協会(麻生泰会長※1)が設立され、大会は同協会の主催で開催されるようになりました。現在は地元企業を始め多くの企業から協賛を頂くと共に、サポーターズクラブの皆さんからの会費や、国及び県からの補助金によって大会を運営しています。
※1)04年、特定非営利活動法人の承認を受け、現在はNPO法人九州車いすテニス協会(麻生泰理事長)として活動

天皇杯・皇后杯を掲げる前回大会優勝者と前田恵理大会会長(写真左)

車いすテニスの大会は国際テニス連盟(ITF)によって格付けされ、グランドスラム、スーパーシリーズ、マスターズ、ITF1、ITF2、ITF3、フューチャーズに分かれています。飯塚国際車いすテニス大会はそのうちスーパーシリーズに格付けされています。実はグランドスラムの一つ全仏オープンに車いすテニスがなかった07年まではスーパーシリーズが最高峰で、飯塚は全豪、全米、ウィンブルドンと並びグランドスラム扱いになっていた時期もありました。

また18年には車いすバスケットボール、車いす駅伝競走と共に、障がい者スポーツとして初めて天皇杯・皇后杯を授与して頂けることになりました。天皇陛下は皇太子時代に東京パラリンピックの名誉総裁を務められ、その後も皇后陛下と共に全国身体障害者スポーツ大会(現・全国障害者スポーツ大会)にはほぼ毎年ご出席になられるなど、障がい者スポーツに深く関わってこられました。こうした両陛下のお気持ちを踏まえ、陛下の退位を控えた昨年、障がい者スポーツへの天皇杯・皇后杯の授与が決まったと聞いています。

このことが決まると、地元は喜びに湧きました。飯塚国際車いすテニス大会は「イイヅカ方式」と呼ばれ、競技用車いすの運搬や通訳、ボールパーソンなど大勢の市民がボランティアとして活動され、期間中、延べ2000人以上が裏方として支えてくださっています。しかも、地元商店街やホテル、タクシー、消防団、警察署、陸上自衛隊、もちろんライオンズやロータリー、青年会議所など幅広い支援の輪があり、例えばタクシー業界では車いすのたたみ方や積み方など車いすの取り扱いに関する講習をやっているほどです。

大会参加選手の送迎を担当する陸上自衛隊飯塚駐屯地の隊員たち

かつて海外の選手から、「大会に参加するのだが、Google Mapで検索してもイイヅカ・エアポートが見つからない」と問い合わせが入ったことがあります。スーパーシリーズの開催地なのだから、当然空港ぐらいあると思ったのでしょう。ただ、福岡空港へ着くと、選手の送迎のため陸上自衛隊の隊員が迎えてくれます。それを見て選手たちは「アーミーが迎えに来てくれるなんてすごい大会だ」と思うようです。陸上自衛隊には第1回大会からご協力頂き、車いすや用具を含めた選手の移動や会場の設営などに力を発揮して頂いています。

更に大会ごとに開催している歓迎レセプションには大勢の市民も参加して、選手たちと触れ合います。その際、私が所属している飯塚ライオンズクラブもおもてなしブースを出してくれ、レセプションをサポートしてもらったりしました。そんなこともあって、ITFからは選手との距離が近すぎるという指摘をされたこともありましたが、車いすの選手からは「参加したい大会」の第2位に選ばれ、「最も人情の厚い大会」とも呼ばれています。

飯塚ライオンズクラブは2018年8月16日、飯塚市役所において飯塚国際車いすテニス大会へ天皇杯・皇后杯展示ケースを寄贈した

もちろんスーパーシリーズを維持するためにはコートの整備や保全も大切で、6年前にはコート10面を全米オープンと同じサーフェス(コート面)に改修するなど、質の向上にも取り組んでいます。それと大会スローガンは「心にスマッシュ・社会にラリー」で、共生社会の実現を目指しています。「一緒に」というのが大会の原点であり、単なる勝ち負けではなく、今後も選手や大会役員、ボランティア、また飯塚市民が一緒になって作り上げる大会というものを大事にしていきたいと思っています。

一つ残念なのは、観覧者が決して多くはないことです。今年の大会は4月23日から28日まで、県営筑豊緑地テニスコートで開催されます。男子世界ランキング第1位の国枝慎吾選手や、女子世界ランキング第2位で大会6連覇中の上地結衣選手も参加されます。来年には東京パラリンピックもあります。この機会に障がい者スポーツに興味を持って頂き、出来るだけ多くの方に競技を見て頂きたいと思っています。

大会公式サイト:https://japanopen-tennis.com/

2019.03更新(取材・構成/鈴木秀晃)

まえだ・えり:飯塚国際車いすテニス大会会長、トーナメント・ディレクター。1955年、飯塚市生まれ。77年、西南学院大学卒業後、西日本総合銀行(現・西日本シティ銀行)入行、学生時代から銀行員時代を通じてテニスを続け、80年から飯塚ローンテニスクラブのインストラクターに就任。02年4月、飯塚ライオンズクラブ入会、07年度クラブ幹事。㈱ニッツー代表取締役社長。一般社団法人日本車いすテニス協会会長。