歴史
心身障害者支援:
あなたも私も社会の一員
1960年代
1964年10月に開催された東京パラリンピック以来、心身障害者に対する人々の関心は高まっていた。社会奉仕を旨とするライオンズクラブならばなお更で、1965年度、翌66年度には日本全体で「心身障害者に愛の手を」をスローガンに掲げ、全国各地で積極的な活動を展開した。まずは施設を訪ね、話を聞き、支援の方法を探るといった動き出しが多く、この頃の『ライオン誌』にはそうした訪問記が度々掲載されている。
滋賀県・大津びわこライオンズクラブは、1965年に重症心身障害児の施設・びわこ学園を訪ねた(66年4月号)。当時、重症の身体障害と知的障害を重複して持つ重症心身障害児数は推定3万人とされたが、彼らが入れる施設は全国に三つしかなく、びわこ学園はその一つだった。ライオンズ・メンバーは、施設の不足、看護師等職員の不足、経済的不足、あらゆる不足を目の当たりにし、政策の立ち遅れを痛感する。この時は1日に交換するおしめが1600枚にも上ること、何とか洗濯は出来ても乾かすのが問題で、乾燥機が欲しいが買えないという話を聞き、クラブから40万円の乾燥機を贈呈することになった。しかし「1クラブの力では微力にすぎない」という思いは強く、本誌への寄稿には、全国のライオンズによる一大キャンペーンが展開されることへの期待が書かれている。
この後もびわこ学園に対する近隣クラブの支援が度々『ライオン誌』に掲載されているが、運営資金の贈呈や冷蔵庫の購入、バスを仕立てて子どもたちをピクニックへ連れて行ったりといった活動が中心であった。71年に同園の岡崎英彦園長が『ライオン誌』に寄せた手記(71年3月号)には、ライオンズへの感謝に加え、施設で子どもたちが見せるゆっくりとした成長への喜びが記され、更に施設として前進していくためにライオンズの力を借りたいと結ばれている。
こうした活動報告の他に「全国で会員から数千円ずつを集め億の金にして大きな潮流を作ろう」というような意見も散見されたが、実際にはそれぞれの地域で地元の障害者のための奉仕として具現化された。
兵庫県加東郡(現・加東市)滝之町では1965年、西脇、社、中、八千代の四つのライオンズクラブの後援により肢体不自由児機能訓練施設「わかあゆ園」が誕生した(66年9月号)。神戸と姫路という大きな町のはざまにあるこの田園地帯には、当時推定150人の肢体不自由児がおり、その多くは家の中にこもる生活だった。64年に滝ノ町母子健康センターの中に通園訓練施設を設ける話が出ると、4クラブは即座に協力を申し出て35万円を贈呈。この資金により施設の初年度予算が組まれ、機能訓練用具設備費、専門医や訓練士への謝礼等々に充てられた。わかあゆ園開園後は25人の肢体不自由児とその保護者が週に1度ほどのペースで通園し、診察や訓練を受けた。指導に従い家庭でも訓練を継続したところ1年後には目覚ましい効果が現れ、入園希望者が急増。関係市町と協議の結果、施設は移転・拡張され、130人を受け入れ可能な公共施設として運営されることとなった。
東京江東南ライオンズクラブは1967年、江東区の一角に肢体不自由児訓練施設を開設した(68年2月号)。当時同区には肢体不自由児が約300人いて、篤志家から借り受けた小さな家を子どもたちが遊んだり訓練を行ったりする「ホーム」としていた。しかしもっと広い家を求めて「し体不自由児父母の会」が区に陳情を続けていたところ、クラブ結成1周年の記念奉仕事業を模索していた東京江東南ライオンズクラブと出会ったのである。設計士や材木業を営む会員の協力も得て、工費220万円で木造平屋建て約82平方mの新ホームが完成。訓練室には厚さ1cmフエルトの上にじゅうたんが敷かれるなど、各所に配慮がなされた。子どもたちはじゅうたんの上で思うぞんぶん体を動かす。1日20~30人の子どもたちが元気に飛び回り、笑いの絶えない明るいホームとなった。ライオンズ・メンバーたちは時折ホームを訪ねたり、クリスマスにはサンタクロースに扮してプレゼントを配るなど支援を続けた。
長野県下諏訪町の諏訪湖を望む地には、65年に国内初となる労災による脊髄損傷麻痺者のリハビリテーションを行う国立の作業所と寮「労災リハビリテーション長野作業所」が開設された。同作業所の内藤三郎所長は長野県・岡谷ライオンズクラブの会員で、前職では九州労災病院長を務め、北九州ライオンズクラブの結成時からの会員でもあった。計画当初から関心を寄せていた岡谷ライオンズクラブは開所に当たり水晶時計を贈呈、作業所員を激励する会食を設けた。
作業所は地元企業の協力を得て、カメラ、時計、モーターなどの精密機器関連の作業を受注した。内藤所長の報告によると所員らの勤労意欲は非常に高く、「むさぼるように作業台に着く」という。新しい試みとなるこのリハビリテーション作業所は、早くも最初の3カ月で技術と生産面の向上を示した。障害を負った人が残る機能を生かして働き、自立した生活を送れるように支援するのが、職業的リハビリテーションの目的である。これがどれほど実施されているかが、その国の文化を計る尺度ともなっていたが、残念ながら日本は先進諸外国からは後れを取っていた。同作業所の順調な滑り出しは、可能な動作を正確に測定し適正職を選択することで、障害が障害にならないことを証明した。
障害の有無にかかわらず、持てる力を生かすこと、社会と関わることは人としての尊厳である。各地域のライオンズクラブはクラブ内外での啓発活動によって障害への理解を深め、家の中にいた障害者を施設に向かわせ、施設の中にいた人たちを旅行などさまざまなイベント企画によって外へ連れ出した。設備や資金の贈呈は単に不足を補うだけでなく施設の外に理解者がいることを示し、ライオンズは社会とつながる窓となった。
2019.02更新(文/柳瀬祐子)