歴史
東京五輪
民間組織の先頭を切り支援
1964年
1964年10月10日~24日、東京オリンピックが開催された。アジア地域が会場となるのはオリンピック史上初めてのことであり、出場国は当時としては過去最多の94カ国となった。日本はオリンピックの開催を機に交通網を始めインフラの整備に多額の資金を投入、東海道新幹線が東京、名古屋、大阪の三大都市圏を時速210km、約4時間で結び、首都高速都心環状線も開通、羽田空港まで東京モノレールが走った。また1959年に現在の平成天皇と美智子妃殿下のご成婚を機に23.6%まで急速に進んだ白黒テレビの普及率は、5年後の東京オリンピックには87.8%に。日本はオリンピック景気に沸いた。
東京オリンピック後の11月3~10日には、東京パラリンピックが開催された。これは1960年に開催された初回となるローマ・パラリンピックに続く第2回で、まだ日本でパラリンピックはほとんど認知されていなかった。パラリンピック大会の運営委員会は企画段階で、総額6000万~7000万円の費用予算を計上しており、民間団体や一般募金から約2000万円の援助を見込んでいた。そうした中で、日本ライオンズはNHKと朝日新聞を通じて、パラリンピックへの協力を求められる。大会の意義を考えれば、これこそは我らライオンズクラブが民間組織の先陣を切り、後に続けと旗振り役になるべきだという結論に至ったのだった。
第1回のローマ・パラリンピックには21カ国から400人の選手が参加したがこの中に日本人はおらず、ほとんど報道されることもなかった。パラリンピックについて認識が無いのは、一部を除けばライオンズ・メンバーとて一般市民と同じ。そこで、日本ライオンズの組織内でパラリンピックとは何かを知らしめる啓発からスタートした。先導するメンバーたちには、理解さえしてもらえれば協力を得ることは難しくないという、ライオンズクラブの性質に対する自負と仲間への信頼があった。
東京オリンピック・パラリンピックが開催される1年余り前から、ライオンズクラブの公式機関誌であるライオン誌日本語版には、スポーツがもたらす身体障害者のリハビリテーションと社会復帰の促進効果についてや、世界で急速に発展しつつある障害者スポーツが日本はまだ進んでいないこと、東京パラリンピックが刺激となって世の人々の関心を呼び、彼らの社会復帰と生活改善が期待されることなどが度々掲載されている。
東京パラリンピックのために日本各地のライオンズから支援が集められ、1963年9月に厚生大臣室で協賛金約660万円の贈呈式が行われた。大会運営委員会会長に目録が手渡されると、各新聞・テレビの報道班によるフラッシュが一斉に光った。2度3度とポーズを求められたライオンズの福島正雄302-E1地区前ガバナーは、
「ポーズの度に中味が増えてくれればね」
と軽口をたたき笑いを誘った。終始ニコニコと式に立ち会っていた小林武治厚生大臣は、
「民間団体が率先してこの運動を繰り広げてくださったことは非常にありがたい。政府としても一層援助して身体障害者の福祉を図るよう努力したい」
とあいさつした。パラリンピックへの支援はこの後も続き、最終的な協賛金の総額は1000万円近くに上った。
日本ライオンズではパラリンピックに続いてオリンピックへの協力を検討し、各国国旗を掲揚するための金属製ポール100本と、移動トイレットカー2台を寄贈することになった。トイレットカーに決まったのは、外国の婦人でも気持ち良く使える奇麗なトイレが必要だという提案理由が多くの同意を得たからだ。今では時に過剰と思われるほどに清潔好きな日本人からは想像しづらいことだが、当時は立小便をする悪習慣があったり、駅や町中の公衆便所は汚くて到底入ることが出来ないものだったという。
「こうした公徳心の欠如はまことにお恥ずかしい。口先だけで文化国家・日本などと誇示しても、空念仏になってしまう」
と、トイレ設置の必要性を語った記述もある。
これらを寄贈するのに必要な経費は、ラッキーカードを2万5000枚発行しライオンズ・メンバーに1000円で販売して得た収益等が充てられた。国旗掲揚ポールは国立競技場メインスタンドの周囲に設置され、オリンピック終了後そのまま競技場に寄贈された。大会中に大活躍したトイレットカーは、その後東京都に寄贈され、清掃局で利用された。
この他にも、クラブの活動として喫煙マナーの改善推進に取り組んでいた東京ライオンズクラブは、ライオンズの名入りで五輪にちなんだ特別なデザインの携帯用アルミ吸殻入れを、青・黄・黒・緑・赤の5色で計20万個製作。競技場前などで入場者や各国選手たちに配布した。約500人のボーイスカウトが配るのを手伝ってくれたのだが、一人で5色をそろえたいという人や、オリンピック土産にするからもっと欲しいという外国人が現れるなど、少年たちが困ってしまう場面も見られるほど大好評だった。
2018.09更新(文/柳瀬祐子)