フォーカス
被災地との絆を深め
震災からの復興を見守る
加藤孝治(北海道・苫小牧ハスカップLC)
私は1969年に独立して会社を創業したんですが、現場で一緒になった建築屋さんの中に、陸前高田出身の方がいました。その彼が、冬場は北海道では仕事が出来ないから陸前高田で仕事をすると言って、向こうでも一緒に組んで働かないかと誘われたんです。それであちらで仕事をすることになりました。冬の間、陸前高田で暮らすうち、ある方から紹介されて、家内と知り合うことになりました。家内との初デートは、東日本大震災で奇跡の一本松が残った高田松原でした。
今も家内の実家は陸前高田にあり、震災の時はすぐにでも飛んで行きたい思いでした。でも、こちらは北海道なので、現地に入る手段が限られているんです。3月19日になってやっと秋田行きのフェリーの予約が取れました。太平洋側の港は全て壊滅状態ですから、苫小牧から入れるのは秋田だけだったんです。そのため、いったん秋田へ渡り、陸前高田を目指しました。その3日前に苫小牧ハスカップ ライオンズクラブの例会があり、救援物資を持って陸前高田へ入ることを話したところ、会員の皆さんが出発までにいろいろな物資を持ち寄ってくださいました。それらの中に、保険代理店の会員が箱ごと提供してくれた、LEDライト付きのボールペンがありました。まだ停電が続いていたため、夜、避難所などで動く際にとても役立ったようで、被災された方たちに特に喜ばれました。
陸前高田では、家内の姉の長女とその小さな娘が行方不明になっていました。車で実家を目指して逃げたらしいのですが、実家の手前で津波につかまったようです。車は発見されたんですが、中には逃げる途中でお乗せしたのかお年をめした見知らぬ女性のご遺体があっただけで、姪たちは見つかりませんでした。私と家内、長男の3人は8日ほど陸前高田にとどまり、姪たちを探しました。そうした中、姪の子どもが遺体で見つかりました。しかし結局、姪は見つからず、いまだに行方不明のままになっています。
姪の弟は、陸前高田の酒蔵・酔仙酒造に勤めているんですが、ここも建物は跡形もなく津波にやられ、従業員の方7人が亡くなりました。震災後、何度目かの陸前高田訪問の際、同じクラブの岡部喜代司さん(今年度331-C地区キャビネット会計)が同行してくれ、この時、甥が勤めている酔仙酒造にも立ち寄らせて頂きました。会社の皆さんは、壊滅的な被害を受けながらも決して下を向かず、復興を目指して懸命に努力されていました。私たちはその姿を見て感銘を受け、「酔仙酒造と陸前高田市を応援する会」を作って、継続的に支援をすることにしました。
これまでに4回、苫小牧市内で酔仙酒造のお酒を楽しむ会を企画しています。毎回、苫小牧市長を始め120人ほどの市民が集ってくださり、東日本大震災からの復興への思いを確認し合っています。また、出席者からは募金が寄せられ、それを陸前高田市の戸羽太市長にお届けしています。こうした活動を続ける中で、陸前高田ライオンズクラブとの交流も生まれ、今年4月には同クラブの協力を得て、苫小牧ハスカップ ライオンズクラブの仲間と共に、陸前高田にエゾヤマザクラやソメイヨシノ、ハスカップなど7種類57本の苗木を植樹してきました。
実は我が家の庭に、北海道では珍しいシダレザクラがあり、春には淡いうす紅色の花を咲かせます。この桜は40年余り前、陸前高田で購入して持って来たもので、家内の手入れがいいのか、今では非常に見応えのある枝振りとなり、近所だけではなく他の町から見に来られたり、中にはバスを仕立てて来られる老人施設などもあって、評判になっているんです。そこで、今度は苫小牧から陸前高田へ桜を持って行き、東北と北海道の絆を末永く残し、震災の風化を防ぎたいと植樹を計画しました。植樹した木々の成長を見守るためにも、今後も継続して陸前高田を訪問し、町が復興していく姿を自分の目で見届けたいと思っています。
2018.09更新(取材・構成/鈴木秀晃)