歴史 視野が広がる世界が変わる
日米学生交換計画

視野が広がる世界が変わる 日米学生交換計画

1957年、日本で60番目のライオンズクラブとなる兵庫県・神戸イースト ライオンズクラブが結成された。クラブは結成当初から、海外のクラブとの間で子弟を交換し若者の国際的視野を養う活動を広めたいという目標を掲げていた。そこで早速、所属地区の大会に議題として提出したが、時期尚早ということになった。当時、外貨の持ち出しは200ドルが上限とされ、一般の海外旅行も自由化されていなかった(自由化されるのは1964年)。その後も提案を繰り返すも、実現を見ないまま数年が流れた。

事態が動くのは60年。アメリカ・サンフランシスコのモーリス・パーシュタイン国際理事一行が来日した際のこと。アメリカのライオンズと日米学生交換について話をする機会が訪れた。その頃、国際協会ではこの種の計画を通じて、ライオンズクラブが青少年の国際的な相互理解を深めることで世界平和を主導していきたいと考えていた。そのために組織として系統立った具体的なプログラムを作ろうとしていたのだった。国際的に見れば、時期尚早ではなく実にタイムリーな企画だったわけだ。日米学生交換計画はトントン拍子に話が進み、61年夏に第1回が実施されたのである。

学生交換の相手となったのは、4複合地区(アメリカ・カリフォルニア州、ネバダ州)のライオンズだった。日本人学生9人、アメリカ人学生13人が相互に派遣された。どちらも往路は海、復路は空の旅だ。日本からは7月7日、定期船プレジデント・ウィルソン号で神戸港を出港。途中ハワイ洲ホノルルに寄港して1日見学を挟み、神戸を出てから2週間後の7月19日にサンフランシスコに到着した。それから学生たちは一人ずつ分かれ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴの三つの家庭に2週間ずつホームステイ。8月30日に日航機で帰国した。

サンフランシスコへ向かう第1期生。プレジデント・ウィルソン号の甲板にて

アメリカの学生は7月19日に横浜港に到着。横浜、鎌倉、名古屋を回り、神戸の会員宅に分宿して、京都、奈良、姫路を訪ねた。当時の池田勇人首相夫妻や、ライシャワー・アメリカ駐日大使を訪ねるという特別な企画も組まれた。待ちに待った企画の実現で思い入れが強かったためか、日本流のおもてなしか、非常に盛りだくさんの行事が詰め込まれた。ハードスケジュールの遂行で学生たちには随分疲れた様子も見られたらしいが、8月26日、楽しい思い出をたくさん持ってアメリカへと帰国の途に就いた。

学生たちの派遣費用については、派遣する側のライオンズが往復旅費と小遣いを負担し、受け入れ側が滞在先での宿泊や移動等の費用を負担した。日米学生交換からわずか2カ月後の1961年10月、国際プログラムとして正式に承認された「青少年交換(YE)プログラム」では、この日米ライオンズ間で行われた経費の分担方法が原型となった。それは現在の「青少年交換及びキャンプ(YCE)プログラム」となり、一部内容が変更された後も継承されている。

ホスト・ファミリーの子らと一緒に、庭でくつろぐ1965年アメリカへの派遣生

第1回目の日米学生交換実施において、日本からの派遣生9人分の費用は、往路船賃370ドル、復路飛行機代435ドル、小遣い200ドル、計1,005ドルだった。為替レートは1ドル360円、日本円にして36万円、一人当たりでは4万円。同年の公務員の大卒初任給12,900円だったので、給料約3カ月分だ。海外旅行が身近になった現在とは比較にならないほどの大事業だったろう。同時に参加した学生たちが背負ったものの重さも、そしてもちろん夢や希望も、大層大きかったろうことが想像出来る。2010年、交換計画実施50年目を機にライオン誌が企画した第1期生による座談会で、彼らは次のように語っている。

「我々第1期生がしっかりしないと、次回から受け入れてもらえないかもしれない。そんなことになったら大変だという思いはありました」(男性/当時医大インターン)

「あの8週間は人生の中であれほど楽しい時間があったかと思うほど。ライオンズの皆さんやお世話になった方々には本当に感謝しています。ホスト・ファミリーとは今でも手紙を交換しています」(男性/当時大学3年)

「コーラを飲んでもスーパーマーケットへ行ってもびっくり! あの感動や驚きは今の人たちには味わえないだろうと思います」(男性/当時大学4年)

「帰国してからもずっと、ニュースで地名を耳にするだけで胸が高鳴るほどでした。私にとってはその後の人生を大きく変える経験で、女の子はこうでなければならないという考えから解放されて、おかげでとても楽しい人生を過ごしてきました」(女性/当時大学2年)

今では国内旅行と大して変わらないほどの手軽さで海外へ行かれるようになり、バーチャルで地球の裏側の町の路地を散歩することすら出来るようになった。それでも、海外で家族の一員として迎えられ生活を共にすることは、単なる旅行やインターネット上の情報からは得られない特別な体験となる。人と人とが直接触れ合う中で新しい文化に触れ、自国の文化を紹介する。相互に理解を深め、視野が広がる。交換計画第1期生らは言う。「何があってもアメリカを嫌いになれない、あのプログラムにはそれぐらいの親善の効果がある」と。それは60年近い学生交換の歴史の中で、昔も今も変わらない。

2018.05更新(文/柳瀬祐子)