歴史
リッチランドの壺:
海を越えた愛の光
1956年
「リッチランドの壺」というタイトルを得て語り継がれる、奉仕の物語がある。1956年に、一人の青年を失明の危機から救うため、日本とアメリカのライオンズクラブが国境を超えて手を携えたこの出来事は、初期の日本ライオンズを代表するエピソードの一つであり、またライオンズクラブ国際協会という奉仕団体の国際性を象徴するものだ。そして東北地方で初めて結成された青森ライオンズクラブ誕生の物語でもある。
青森市に住む青年・市川仁也氏は早くに父を亡くし、母と姉、弟と共に暮らしていた。戦後10年近くが経っていたが、経済的に苦しかったため大学進学の希望はかなわず、片親であるが故に満足な就職口も無かった。そんな1956年春、20歳の時、追い打ちを掛けるように網膜剥離の診断を受ける。医師からは、手術を受けなければ失明すること、費用は5万円ほど掛かることが告げられた。
健康保険制度も無い時代である。途方に暮れた市川青年は、以前から通っていた青森バプテスト教会の豊原牧師に相談する。牧師は、費用のことは考えずとにかく手術を受けるように言い、市川青年はそれに従う。その費用がどのように工面されたかを彼が知るのは、手術後のことになる。相談を受けた豊原敏郎牧師は、教会のハルバーソン宣教師に青年の苦境を話した。ここから太平洋を越えた善意のリレーが始まる。
ハルバーソン宣教師は、第2次世界大戦では42年からアメリカ兵としてフィリピン戦線に従軍していた。終戦後、日本に上陸した彼は、あまたの悲惨な状況を目にした。戦争の無残さ無意味さにやるせない思いで東京を歩き回っていた時、ある教会の前を通りかかった。牧師に招き入れられ、何回か通ううち、将来の夢も無かった彼の心の片隅に牧師が示してくれた聖書の言葉が刻まれている。帰国後、彼は神学校で学び直し、宣教師として再び日本の地を踏んだ。その時には、名刺に漢字で「春葉村」と記すほどの親日家になっていた。
そんなハルバーソン宣教師と豊原牧師は、市川青年の手術費を得るために青森で支援者を募り奔走した。が、戦後の復興に全力を尽くしている市民にとっては容易なことではなかった。そこでハルバーソン宣教師はアメリカ・ワシントン州リッチランドに住む母へ手紙を送り、援助の手立てを打診する。話は叔父のロバート・ハックルベリーへ伝わり、彼は所属するリッチランド ライオンズクラブに相談した。
ここでも不思議な巡り合わせが働いている。リッチランド周辺では1950年代にトラコーマが蔓延。リッチランド ライオンズクラブは町の子どもたちを網膜剝離や失明から守るために、検診や治療といった対策を先導していた。これが功を奏して高額な医療費を半分に抑え込むことに成功し、地域住民からの感謝を受けていた矢先、市川青年の話がクラブに持ち込まれたのだった。クラブ・メンバーたちの大きな使命感と達成感という熱の冷めやらぬ中、理事会に報告され例会に諮られた市川青年への支援は即決。わずか5分でメンバー30人から150ドル(当時のレートで5万4000円)が集まった。
リッチランド ライオンズクラブはこの奉仕活動を日本のライオンズの手を通じて行ってもらおうと考えた。この時はまだ青森にはライオンズクラブが無かったため、東京ライオンズクラブへ送金した。日本にライオンズクラブが誕生してまだ4年という時期に、先輩として「これがライオンズだ」と示す意図もあったのかもしれない。事のてん末を記した書簡とお金を受け取った東京ライオンズクラブは胸を打たれた。
「私たちもこの活動を手伝わせて頂きたい。青森の青年の治療費は私たちが作り、リッチランドからの善意のお金はそのまま基金にしよう」
東京ライオンズクラブはリッチランド ライオンズクラブの承諾を得て、「リッチランド・アイ・ファンド」という名の視力保護事業の基金を創設。例会場の入口には「リッチランドの壺」と名づけられた壺が置かれ、メンバーたちが入れた寄付が基金に積み増しされていった。
市川青年は病気の宣告から約半年後の10月、無事に手術を終え視力を取り戻した。後に、一連の出来事を知った時の思いを「私を助けるために日本とアメリカで大きな愛の輪が広がっていたことに心が震え、身が引き締まる思いがした」と語っている。人生最大のピンチを乗り越えた彼は間もなく、ハルバーソン宣教師仕込みの英語を生かせる運輸会社に就職。海運業務を担当しながら通信教育で大学を卒業し、キャリアを積んで、国際輸送コンサルタントとなって活躍した。
一方、東京ライオンズクラブは、希代の縁でつながった青森の地でクラブ結成を呼び掛け、その年の12月、東北地方で初、日本では37番目となる青森ライオンズクラブを誕生させる。青森ライオンズクラブとリッチランド ライオンズクラブは1983年に姉妹提携を結び、これを記念してリッチランドの壺は蓄えられた基金と共に東京ライオンズクラブから青森ライオンズクラブへ譲渡された。更に2000年には市川仁也が青森ライオンズクラブへ入会。現在も自らを支えた多くの人の善意に感謝しつつ、奉仕活動に励んでいる。
2018.02更新(文/柳瀬祐子)