歴史札幌オリンピック支援
ライオンズ青年の家

札幌オリンピック支援 ライオンズ青年の家
宮の森ジャンプ競技場のすぐ側に建設された冬季オリンピック協力施設「日本ライオンズ青年の家」→『ライオン誌』71年4月号

1972年2月3日から13日まで、札幌で第11回オリンピック冬季競技大会が開催された。日本及びアジアで初めて開催された冬季オリンピックだ。日本人選手90人を含め世界35カ国から1000人以上が参加。スキー、スケート、アイスホッケー、ボブスレー、リュージュ、バイアスロンの6競技35種目で熱戦が繰り広げられた。中でも男子スキージャンプ70m級(現在のノーマルヒル)では日本のジャンプ陣、笠谷幸生、金野昭次、青地清二選手が金銀銅の表彰台を独占し、「日の丸飛行隊」と呼ばれた。

この70m級ジャンプが行われた宮の森ジャンプ競技場のジャンプ台の真下、まるで選手たちがそこを目指して飛んでいくかのような場所に、「日本ライオンズ青年の家」が建っていた。70年に完成したこの施設は、スキージャンプ選手たちがオリンピック前に1年4カ月にわたる合宿生活を送った、我が家のようなものだった。

札幌オリンピック開会式が行われた真駒内屋外競技場(現・真駒内セキスイハイムスタジアム)

札幌オリンピック開催が決まったのは67年。同年、ライオンズクラブの302-E3地区(北海道)ガバナーに就任した竹鶴可文(よしぶみ)は、「青少年が北海道の大自然の中で成長出来る施設、そして障害者の憩いの場にもなる施設が作りたい。出来れば日本全国のライオンズが手をつなぐ統一事業にしたい」と考えていた。オリンピック開催が決まった札幌だが、実はアスリートたちのトレーニング環境は全く整っていなかった。そこで、オリンピックまでは選手たちの強化合宿場として、終了後は青少年育成のための青年の家となる施設を日本ライオンズの合同事業で建築することで協議を重ね、69年に承認された。

どこに、どのような建物を建て、どう運営するか。日本ライオンズは「1972年冬季オリンピック協力委員会」を設置、竹鶴が委員長に就任した。まずは土地の確保だ。しかし大自然に囲まれ交通の便も良い場所を探し当てても、自然保護地で建築の許可が下りなかったり、競技会場から遠かったりと難航した。連日土地探しに走り回り、焦りの色が濃くなってきたある日、思わぬ吉報が舞い込む。札幌市郊外、70m級ジャンプ台予定地から100mと離れていない所に土地があるというのだ。まさに天の采配!

日本ライオンズ青年の家の一角には、日本各地のライオンズクラブのバナーが飾られた

建物の設計を担ったのは、札幌市のオフィス街のビルの多くを手掛けた著名な建築家で、日本ライオンズ青年の家実行委員長として陣頭に立っていた田上義也(札幌エルム ライオンズクラブ)だ。最初田上は、「実行委員長の自分が設計図を引いては公私混同と思われる」と辞退したが、関係者全員の支持を得て本領を発揮することになった。建物のコンセプトには、近代オリンピックの父と呼ばれるクーベルタン男爵の言葉で、オリンピックのモットーになっている「より速く、より高く、より強く」を取り入れた。「より速く」は、翼をイメージした水平に伸びる建物の主要部分。2階建てで1階にフロントと食堂や会議室、キッチン、風呂、スキー置き場や乾燥室といった共用設備、2階は100人を収容する宿舎になっている。「より高く」は、建物の中央に設けた高さ17mの塔で表現した。水平の翼と垂直の塔で組まれた十字が、強靭な構造体として「より強く」を示している。

全国のライオンズ・メンバーからは、月額20円が2年間にわたり集められた。69年6月に着工した青年の家は、1年後の70年6月に完成。総工費5000万円。オープンすると早くもニュースを聞きつけた若者たちが全国から訪れ、利用者は半年余りで4000人にも上った。その中に、前述のオリンピック選手も含まれる。彼らのすばらしい活躍は日本中、世界中の人々に感動をもたらし、日本中のライオンズ・メンバーにとってもこの上ない喜びとなったことは言うまでもない。しかしこれは青年の家建築事業のゴールではなく、スタートだ。施設はオリンピック閉会後、札幌市に移管されて札幌市立ライオンズ・ユースホステルとなり、2000年に閉館するまで多くの若者たちを迎え入れ、その成長を見守り続けた。そこには常に、設計者の田上が込めた「全国ライオンズの善意の泉として、集まってきた若者たちがこの泉に見守られて生活をする。そして次に利用する人たちに伝わる温かい心の泉を残してもらいたい」という願いがあった(71年4月号)

ライオンズ・ホスピタリティー・ルームに設けられた野立て風の茶席

札幌冬季オリンピック会期中には、札幌市内の八つのライオンズクラブによる三つのおもてなしも実施された。一つは、海外から来札したライオンズ・メンバーやその子弟を自宅に民泊させるというもの。地元のホテル不足解消という面もあったが、それよりも異国の家庭生活を通じて風俗、習慣などを体験してもらうことで、互いに理解を深めようとした。

二つ目に、札幌プリンスホテルに世界のライオンズの交流の場として「ライオンズ・ホスピタリティー・ルーム」を開設した。毎日13~17時にオープン。競技や会場、観光の案内を提供、またポラロイドカメラで撮ったカラー写真をその場でプレゼントした。部屋の一角には野立て風の茶席を設け、和服姿の女性がお茶を点てて振る舞い、外国から来た人たちは思わぬ接待に大喜びだった。

三つ目は「薄暮例会」と称し、2月2~12日の日曜と祝日を除く9日間、8クラブが交代で17時半から19時までクラブの定例会を開催した。ライオンズ・ホスピタリティー・ルームが17時に閉まるので、その後に国内外のライオンズ・メンバーをこちらへ案内する。自クラブ・メンバーだけの普段の例会とは異なり、この時は国内外からのゲストに楽しんでもらおうと、日本の伝統芸能を披露したり、プレゼントを用意したりと各クラブで趣向を凝らした。

オリンピックというスポーツを通じた平和の祭典が繰り広げられている街で、社会奉仕の精神を共有する世界各国のライオンズの仲間たちが更に交流を深めた(72年3月号)

2020.04更新(文/柳瀬祐子)