フォーカス 今に生きる芝居小屋を守り
地域の活性化につなげたい

今に生きる芝居小屋を守り 地域の活性化につなげたい

全国に残る木造芝居小屋には100年以上の歴史を持つものもありますが、どれも時代の変遷の中で一度は役目を終え、近年になってその価値が見直され復活しています。復興した芝居小屋が集まり、情報交換や交流を行う全国芝居小屋会議には13の小屋が参加していて、最も古いのが香川県琴平町の金丸座、今年82年目になる「ながめ余興場」はいちばん新しい芝居小屋です。この余興場を個性ある町づくりに生かそうと平成5年に発足したのが「ながめ黒子の会」です。

「ながめ」の名は眺めが良いことから付いたという説が有力で、余興場は渡良瀬川を見下ろせる場所に建っています。ながめ余興場がある大間々(みどり市大間々)の「まま」は崖を意味し、渡良瀬川の流れが形成した河岸段丘の上に町があります。町の中央を通り日光へと通じる国道122号線は、江戸時代には足尾銅山から銅を運んだ「銅(あかがね)街道」で、大間々はその宿場でした。一帯は桐生を中心にした絹織物の産地で、大間々には絹糸や農産物が集まり、またこの地に入ってきた近江商人によって酒や醤油の醸造も始まって、商人の町として発展しました。

ながめ余興場は昭和12年、ながめ遊園地の中に建てられました。大正14年に出来たながめ遊園地では、今も続く秋の菊花大会が盛大に開かれ、それに合わせて掛け小屋で余興が演じられていました。そこに本格的な芝居小屋を建てたので「余興場」という名が付いたんです。園内にはメリーゴーラウンドや小動物園、さまざまなお風呂が楽しめる入浴施設もあり、関東でも有数の一大行楽地でした。私は昭和29年の生まれですが、子どもの頃によく遊んだ思い出があります。今のアミューズメント・パークのはしりですね。戦後になると、東京の劇場が空襲で被害を受けたこともあって、多くの人気歌手や劇団がながめ余興場の舞台に立ちました。ながめの舞台に立つと出世すると言われたそうで、当時の有名歌手で出演していないのは美空ひばりぐらいです。最盛期の昭和30年代には、入場待ちの列が大間々駅までの数百メートル途切れることなく続きました。

しかし、テレビの普及など娯楽が多様化すると共に客足は遠のき、昭和40年には芝居小屋としての幕を閉じて、それからは映画館として使われていました。昭和62年にながめ遊園地が閉鎖されると余興場も閉館となり、空き屋のまま放置された状態になっていました。

その後平成になって、ふるさと創生事業の1億円の使い道を考えようと、40代の若い町民と役場の職員でプロジェクト・チームが作られ、四つのチームに分かれて検討を行い、私もその一員として参加しました。当時は全国の自治体で次々に箱物が建設されていて、大間々にも文化会館を建てようという話があったんです。しかしプロジェクト・チームで意見を出し合い、ながめ余興場が自分たちの文化ホールでいいじゃないか、保存・改修して活用して町の活性化につなげようと提言しました。この時、すっかりほこりをかぶって雨漏りがするような状態だった余興場を掃除したら、舞台下から大衆演劇の梅沢清劇団の衣装が入った行李が出てきたんです。昭和40年に最後の舞台を飾ったのが、梅沢富美男さんのお父さんが率いていた劇団でした。そこでプロジェクト・チームが解散した翌年、梅沢さんを招いてイベントを企画しました。何のツテもなかったので、何度も手紙を書き、伊勢崎で公演があった時にあいさつに伺って、やっと実現出来ました。真夏でしたが冷房はないので、見た目だけでも涼しくしようと客席に氷柱を立てて、江戸の芝居小屋そのままの雰囲気で観客の皆さんに喜んで頂きました。

このチームの有志が中心になって出来たのが、ながめ黒子の会です。黒子の会のメンバーは、余興場の利用者の要望に応じて搬入から受付、照明などを手伝い、文字通り黒子となって舞台を支えています。平成9年には、開場当時の姿を取り戻そうと町が4億円をかけて全面改修を行いました。手動だった回り舞台は電動と併用出来るようにし、コンクリートの土間だった客席は板張りにして床暖房を入れました。木造2階建て、650人収容で、昭和の趣がよみがえった余興場は、芝居やコンサート、ながめ黒子の会が主催する定例寄席の他に、幼稚園や小学校の学芸会、お年寄りのカラオケ大会など地域の人たちが幅広く利用しているため、年間120日は稼働しています。大間々ライオンズクラブでも、桐生・大間々地区の高校生の音楽祭を10年間続けましたし、5年前には50周年記念の式典をこの余興場で開催しました。

私たち黒子の会にとって念願だった歌舞伎の公演も、4年前に実現しました。群馬県の文化事業で市川猿之助さんの公演が行われることになり、会場の候補となった劇場の中から、猿之助さんがながめ余興場を選んでくれたそうです。その2年後には中村勘九郎さん・七之助さんが全国の芝居小屋を巡る特別公演がながめ余興場でも行われ、今年3月にも七之助さんの公演がありました。

このながめ余興場を支え、盛り上げてくれているのは地域の皆さんです。客席の座布団を新調した時、一口3000円で協力を募って座布団400枚がそろうまで3カ月ぐらいはかかると思っていたところ、わずか3週間で出来上がりました。座布団には出資してくださった皆さんのお名前を刺繍したんですが、織物の産地だけあってその作業も地域の皆さんが協力してくれました。地元の商店や、99歳と100歳の両親の名前を入れたいという方、中には奥さんの名前を入れて尻に敷きたいなんていう方もいらっしゃいました。皆さん、ながめには楽しい思い出があり、大切に思ってくれているんです。大間々ライオンズクラブでも毎年ながめ活性化資金を用意して、のぼりを寄贈するなど支援を続けています。また、余興場に常設されているピアノは、ライオンズと黒子の会などで寄贈したものです。

大間々ライオンズクラブが寄贈したのぼりを見上げる同クラブのメンバー

今後は、子どもたちにながめ余興場の舞台に立ったり、見たりしてもらう機会をもっと増やしていきたいと考えています。今、黒子の会で取り組んでいるのは、大間々町と笠懸町、東村の合併から10年が経ったのを機に企画した創作落語です。それぞれの地域にまつわる話を黒子の会のメンバーが書いて、プロの落語家に演じてもらうんです。昨年からみどり市の全小学校の6年生が余興場に集まって、その創作落語を聞く会をやっています。子どもたちがやがて大人になって地元を離れても、このながめ余興場を地域の誇りとして語ってくれたらいいと願っています。

2019.07更新(取材・構成/河村智子)


こや・まさよし:1954年3月、みどり市(旧大間々町)生まれ。小屋建築設計事務所代表。町の歴史を伝える木造芝居小屋「ながめ余興場」の保存・活用のため93年に発足したNPO法人ながめ黒子の会の黒子頭(=会長)を務め、その活動を通じて地域活性化に尽力している。97年7月大間々ライオンズクラブ入会、2014-15年度クラブ会長。