テーマ 東日本大震災の被災地で
女性たちの支援に取り組む

東日本大震災の被災地で女性たちの支援に取り組む

宮古市は岩手県中東部、江戸時代に南部藩の外港となって以来、長崎貿易の輸出品であった水産物「俵物(たわらもの)」向けの積み出し港や、江戸と北海道松前を結ぶ東廻海運の中継港として栄え、幕末には南部藩随一の繁栄地となった。その後も、世界有数の漁場である三陸沖を背景に水産都市として発展。また三陸復興国立公園の中心的存在である名勝・浄土ケ浜など海、山、川の恵まれた自然環境を有し、本州最東端の町として観光にも力を入れている。

2011年3月11日の東日本大震災では8.5mを超える津波が市街地をのみ込み、517人の方が亡くなった。更に建物被害は住家が約4500棟、非住家が約4600棟で、全体で約9100棟が被災。しかも被災した住家の6割以上が全壊で、多くの人々が貴重な財産を失った。

三陸復興国立公園の中心的存在である名勝・浄土ケ浜

震災当時、宮古市には宮古岩手、陸中宮古、田老の三つのライオンズクラブがあった。宮古岩手ライオンズクラブでは会員の半数、陸中宮古ライオンズクラブでは3人が被災。両クラブの合同事務局は宮古湾に注ぐ閉伊川(へいがわ)の河口から約1kmの場所にあり、川をさかのぼった津波により備品や資料など全てを失った。閉伊川には水面から8mの防潮堤が整備されていたが、大津波はそれをやすやすと乗り越え、市街地に流れ込んだ。

もう一つの田老ライオンズクラブ(震災前会員数15人)は更に深刻で、奉仕地域の田老地区は宮古市で最も大きな被害を受けていた。「万里の長城」と呼ばれた国内最大級の防潮堤をもってしても大津波は防げず、市街地は壊滅状態。田老ライオンズクラブは津波で会員の佐々木正明さんを失い、他の会員たちもほとんどが被災。クラブ事務局を置いていたふるさと田老物産センターは跡形もなく流失した。クラブは地区などの支援を受け、何とか存続を決めたが、会員の半数が退会の意思を示す中、震災から2年後の13年に解散。結成以来43年間、田老地区にともし続けてきた奉仕の灯りが消えることとなった。

東日本大震災に対しては、日本はもとより世界中のライオンズクラブが支援活動を展開。発災直後の緊急支援物資提供から、中長期的な事業に至るまで、被災地のニーズを把握しながら支援を継続してきた。そんな中、陸中宮古ライオンズクラブは14年1月に、被災者支援に特化したクラブ支部(陽だまり支部)を結成。復興支援NPOの関係者らが会員として参加した。その一つ「輝きの和」は、仮設住宅などに引きこもりがちになっていた家庭の主婦らを支援しようと、陸中宮古ライオンズクラブの須賀原チエ子元会長らが立ち上げ、被災者が自立していくための手芸品作りなどを行っていた。

ライオンズクラブの支援により開設された「みやこ体験広場」のショールーム

その後、陸中宮古ライオンズクラブは、輝きの和の活動をベースに、被災者支援のための「みやこ体験広場」をオープン。開設資金はライオンズクラブ国際財団(LCIF)の東日本大震災指定交付金900万円と、島根県・浜田亀山ライオンズクラブからの援助150万円、自己資金30万円余で賄った。広場には新旧合わせて4棟のユニットハウスを設置。中心となる手創工房「輝きの和」では裂き織り(緋紗織)や着物のリメーク品などを作り、それを陳列するショールームも設けた。

みやこ体験広場には、東北地方のライオンズクラブが買い物ツアーや工房の見学ツアーを実施したり、裂き織りの材料となる古着の提供に協力したりしている。また宮古市には震災後毎年、東京のライオンズクラブ会員有志により日本一の大熊手が奉納されている。これは「三陸の復興に役立てたい」と、浅草酉の市発祥の寺・長國寺の井桁凰雄(いげたこうゆう)住職(東京浅草ライオンズクラブ)の発案で実現したもの。大熊手奉納場所の一つ宮古市魚菜市場は、三陸沖から水揚げされた新鮮な魚介類や水産加工品、地元農家が作った野菜がずらりと並ぶ宮古市民の台所。今年1月から場内の改修工事に入り、現在は一時休業中だが、昨年暮れまでは市場の一角に「輝きの和」の販売コーナーも設けられていた。

陸中宮古ライオンズクラブは更に、この体験広場を「老若男女いろいろな人が集う、本当の意味での広場にしたい」と、空きスペースにキッチンカーを置いて、名物グルメの提供も始めた。キッチンカーは「輝きの和」にふさわしく、ハワイ語で「日の光が当たる場所」 「太陽の光が差し込む場所」を意味する「KUKUNA(くくな)」と名付けられた。

被害が大きかった鍬ケ崎地区にキッチンカーKUKUNAでラーメン店を開いた加倉さん夫婦

キッチンカーKUKUNAは、このところ毎日、宮古市鍬ケ崎地区に出動している。鍬ケ崎は津波で甚大な被害を受け、現在、区画整理事業が進んでいるが、建物よりも空き地の方が目立ち、いまだに飲食店は1軒だけという状態。ここでKUKUNAは「中華そば」ののれんを掲げ、ラーメン店として営業している。店を出すのは、津波で被災した加倉稔之さんと佳子さん夫婦。

かつて茨城県でラーメン店を開いていたご主人が「津波で全てを流された鍬ケ崎を活気づけたい」とラーメン店の出店を計画。「輝きの和」に参加していた佳子さんから、その話を聞いた陸中宮古ライオンズクラブが、地域復興の役に立てればとキッチンカーの提供を申し出て、昨年12月から営業が始まった。

「輝きの和に参加したことで、ライオンズクラブの皆さんにお会い出来、そのおかげで鍬ケ崎に帰って来られました。地元の皆さんも、突然現れたキッチンカーを快く受け入れてくださり、開店翌日からは回覧板を回してくださったのではと思うほど、多くの方にお越し頂いています」
と、陽だまり支部への入会を検討中の佳子さんは話す。

「輝きの和」は毎月15日の末広町商店街お得市で手しごとフリーマーケットを開催

一方、「輝きの和」は昨年から、毎月15日に宮古駅前の末広町商店街で開催される「お得市」に出店。岩手県共同募金会の助成金を活用し、宮古市で手芸品を作っている団体と一緒にイベントホールを借りて「手しごとフリーマーケット」を開催している。また、直近では「輝きの和」の商品や、宮古市の手工芸などをまとめたカタログを製作しており、これは被災地・釜石が会場の一つとなっている「ラグビーワールドカップ2019」に向け英語版も作ることにしているという。更に、みやこ体験広場の中に、産前・産後すこやかケアハウスを設置したり、子育てサポートセンター宮古「ククナの家(家庭的保育事業所)」の開園を目指したりと、最近は子育て支援にも取り組んでいる。

市民に定着してきた「輝きの和」の手しごとフリーマーケット

「被災者支援は震災以来継続して行っていますが、同時に子育ての支援も始まっています。これらは、みやこ体験広場という拠点があったればこそ実現出来たことです。カタログも、以前に広場を訪問してくださった山形県・鶴岡ライオンズクラブの伴和香子元地区ガバナーからの提案ですし、ライオンズクラブの支援のおかげで今日があると感謝しています。被災地は一見、復興が進んだように見えますが、経済の落ち込みは大きく、今後ますます大変になると思います。これからも変わらぬご支援をお願い致します」
と、陸中宮古ライオンズクラブの須賀原元会長は話している。

2019.02更新(取材/鈴木秀晃 写真・動画/田中勝明)

「輝きの和」デジタルカタログ