歴史 アジアは一つ
アジア人留学生との交流

アジアは一つ アジア人留学生との交流
美唄ライオンズクラブが受け入れに協力した「アジア親善全国遊説」の一行→『ライオン誌』67年1月号

1966年8月4日夕刻、北海道美唄(びばい)市の美唄労働会館大ホールではアジア人留学生を迎えての「親善レセプション」が開催され、大いに盛り上がっていた。会を主催したのは美唄ライオンズクラブ、招待されたのは財団法人亜細亜友之会(現在の公益財団法人国際人財開発機構)という平和運動団体が57年から99年まで毎年夏に実施していた「アジア親善全国遊説」の一行だ。この全国遊説では日本で学ぶアジアからの留学生が日本各地を訪ね、地域産業の視察や、地元の青年たちと平和についての討論や親善交流を行った。

当時、日本ライオンズで青少年の異文化体験事業といえば、61年に日米ライオンズ間でスタートし国際プログラムにもなった「青少年交換」がメインだった。海外のライオンズと提携し、交換派遣された青少年がライオンズ会員宅に数週間ホームステイするものだ。しかし日本各地では統一プログラムの他に個々のクラブが留学生を支援する奉仕事業も行われていた。資金繰りが厳しかった「アジア親善全国遊説」への支援もその一例で、『ライオン誌』にもいくつかの寄付報告などが残されている。今回は美唄ライオンズクラブの記事を通じて、当時のアジア人留学生を取り巻く状況や、それに関わるライオンズ活動の一端を垣間見てみたい。

美唄市は、西部は湖沼が点在する泥炭地、東部は石炭資源に恵まれた丘陵地から成る。19世紀終盤から入植・開拓が進められ、炭鉱の町として栄えてきた。美唄ライオンズクラブが誕生した1960年の前後は、炭鉱が第2のピークを迎え最も繁栄した時期だ。炭鉱の映画館では新作映画が札幌より先に封切られ、「三種の神器」と言われた白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機は道内で最も早く普及したという。市は農業開発にも力を入れていた。そうしたことからも、留学生の視察先として白羽の矢が立ったのだろう。

美唄ライオンズクラブがアジア親善全国遊説の受け入れに携わることになったのは、ライオンズ・メンバーでもある沢田孝夫美唄市長からの強い協力要請があったからだ。市長には、世界平和実現のためには東南アジアと日本との親善が欠かせないという思いがあった。クラブも全国遊説の目的を聞き、ライオンズが掲げる友愛や相互理解、青少年健全育成といった方針に合致すると快諾した。また留学生たちは、日本人家庭に入り、日本人の生活習慣をより多く知って理解を深めることを切実に望んでいるという。そこでライオンズ会員宅での民泊も引き受けることにした。

それからがまじめな日本人らしい。ライオンズの面々は、自分たちの家での宿泊中に万が一にも人間関係が壊れるようなことがあってはせっかくの国際親善が台無しになってしまうと、万全を期しての準備態勢に入った。民族、言語、宗教、習慣、食事の違いなどあらゆる知識を心得ておくことが大切だと、地元高校の地理の教師をクラブの例会に招き、東南アジア諸国の民情を知るための勉強を開始。留学生が宿泊する各家庭への割り振りについても計画を練りに練り、最終的に決定したのは一行到着の前日であった。

宮城県仙台市では、市内5ライオンズクラブ有志により第8回アジア親善全国遊説の一行45人の歓迎パーティーが催された→『ライオン誌』64年10月号

いよいよ当日の午前11時、亜細亜友之会理事長の大山量士団長と、青山学院の片岡道彦リーダーを含む40人が美唄駅に到着。美唄ライオンズクラブの会員一同は、盛んな拍手でこれを迎えた。美唄での滞在予定は1泊2日。昼食を取ると一行は貸し切りバスに乗り、国立農業試験場や道立林業試験場などの見学に向かった。この農業試験場では泥炭地の開発について研究を続けていた。アジアの食糧問題や農業経営学を学ぶ留学生らは強い関心を示し、時にユニークな日本語でしきりに質問を繰り返した。

各所見学後に開かれたのが、冒頭の親善レセプションだ。この後、留学生たちは一人ずつ分かれてライオンズ会員の家庭に民泊することになっているので、座席は留学生と受け入れ家族が同じテーブルで談笑出来るように配置された。レセプションは市長のあいさつで始まり、留学生は一人ひとり自国の旗の前に立ってユーモアたっぷりに日本語で自己紹介。日本人が郷土の舞踊で歓迎すれば、留学生もそれぞれの国の民謡や踊りを披露した。大山団長は、宿望であった民泊を実現してくれた美唄ライオンズクラブに感涙にむせびながら謝辞を述べた。片岡リーダーも「日本全国の皆さんが美唄市のように理解してくれるならば、アジアの平和の出発点は日本から・・と言うことが出来るでしょう」と感激に堪えない様子だった。

というのも民泊は、アジア親善全国遊説10年目にして初めて実現出来たものだという。欧米先進国の留学生に比べると、東南アジアの留学生には偏見を持つ人もいて、民泊受け入れという壁は高かった。一行は各市訪問の際に市長を表敬訪問することを申し入れても拒絶され、遠目に市内を見学して去ることもあったという。留学生たちを引率する日本人も、臍(ほぞ)を噛む思いは少なくなかったのだろう。

楽しかったレセプションが閉会すると、ライオンズ・メンバーは留学生の荷物を担ぎ我が子の手を引くようにそれぞれの家へと帰路に就いた。

1983年、福岡リバティ ライオンズクラブはオイスカ研修生と交流、ライオンズとオイスカの合同野菜即売会の準備として一緒に野菜の袋詰めなどを行った→『ライオン誌』83年11月号

翌朝、美唄駅前広場はアジア親善全国遊説の一行と、彼らを見送る美唄ライオンズクラブのメンバーや家族でいっぱいになった。あちらこちらで記念写真のシャッターを切る音がうるさいほどで、離れがたい思いはいっこうに収まらないようだった。この中で2人の日本人女子学生が、ガリ版刷りの印刷物を配っていた。「我々は訴える」と題したその内容には、「戦後の私たち日本人は、日本がアジアにあることを忘れてしまった。オリンピックは『世界は一つ』が標語になっているが、日本人は世界平和を叫ぶ前に、身近なアジアの平和のために全エネルギーを傾注してほしい。平和はまず身近なところから出発しなければならない」とあった。

汽車の出発時間が近づくと人々はプラットホームまで移動し、涙を流し抱き合った。たった一泊の好意がこれほど喜ばれる、ひっくり返せば裏側にはこれまでの苦しみがあるだろう。しかし彼らを苦しませた高い壁は、超えてみれば幻のようだ。

2019.12更新(文/柳瀬祐子)