歴史島に響くピアノの音:
東京都の離島を支援

島に響くピアノの音:東京都の離島を支援
切り立った山肌を背にした御蔵島の港→『ライオン誌』66年8月号

1960年代の日本は、国民総生産(GNP)の年平均成長率が10%を超える高度経済成長の真っただ中にあった。経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言したのは56年。64年には東京オリンピックが開催され、これを機に東海道新幹線や東名高速道路などのインフラが整備された。白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫の家電3品が「三種の神器」と呼ばれた時代を過ぎ、カー、クーラー、カラーテレビの「3C」が普及、大量生産・大量消費の時代が到来した。68年に日本はGNP世界第2位の経済大国となり、人々はより豊かな生活を求めて都市に集中、その裏で地方の過疎化が問題になり始めていた。

東京にある複数のライオンズクラブが合同で都下の離島への奉仕を計画したのは、そんな60年代半ばのこと(65年7・8月号)。対象としたのは、人口1000人以下の小島、利島(東京から147km、面積4.12平方km)、御蔵島(同200km、20.54平方km)、八丈小島(同284km、3.07平方km)、青ケ島(同357km、5.96平方km)の4島だ。世界有数の大都市に発展した「東京」の住民でありながら、海を隔てた島々では、その恩恵を全くと言って良いほど受けてはいなかった。人口の少ない小さな島となればなおさらのこと。電気や水道の無い生活の不便さ、医療設備の不足、子どもの教育に対する不安などが島民をじりじりと締め付け、若者が進学や就職で島を出てしまうとなかなか戻ろうとはしなかった。もちろん、島の人々はこれまでもずっと海の恵み、山の恵みを受けて、家族のような強い絆で助け合いながら暮らし、独自の文化や風習を築いてきた。しかし都会の経済発展による格差の広がりが、島に無いもの、生活の不便さを強調してしまった。

本土から生活物資が届くと島民総出で荷揚げに当たる。働き盛りの男性が少ないので、女性も重要な労働力だ(御蔵島)

東京のライオンズはこの格差を少しでも解消しようと、島に暮らす人々の生活改善、社会福祉、子どもたちの教育文化進展に役立つ物品を贈ることを決定した。東京都や地元の意向を十分に尊重して設けた基準が下記である。
 1.必要性の高いもの
 2.緊急性のあるもの
 3.島全体で役立つもので他の施設との関連を十分に考慮する
 4.島で整備困難なもの

例えば、八丈小島と青ケ島には月に数度、生活物資が船で届けられる。その際小さな港に荷揚げされた荷物は、人々が人力で担いで村へと運ぶ。額には玉の汗だ。そこで島民から切なる希望があった軽トラックを1台ずつ贈呈した。また利島では保育園が出来たが設備が無いというので、その設備を寄贈。御蔵島には子どもたちの音楽教育に役立ててもらうようピアノが贈られた。他にも、レコードとレコードプレーヤー、テープレコーダー、放送用器具、8ミリ撮影機と映写機、耕運機、発動機、積み木、紙芝居、鉄棒、滑り台、冷蔵庫、気象観測機、百葉箱等々、総額200万円の品々が4島に贈られた。百葉箱や気象観測機は小中学校で学ぶ子どもたちの教材となり、耕運機は学校での農業指導と島民の農業振興に寄与する。冷蔵庫は診療所で、医薬品、ワクチン等の保管に使われる。医者や医療設備の足りない島では、それだけでも島民たちの安心に直結するものであった。

大人も息を切らす坂道を、子どもたちが走り回る(御蔵島)

これらの品々を受け取った各島の村長や小中学校校長、児童・生徒らからは、感謝と喜びの言葉をつづった手紙がライオンズの元へ送られてきた。
「私たちはみんな、ピアノがどんなものか知りませんでした。オルガンのように鍵盤を押しても鳴りません。ポンと叩いたら音がしたのでびっくりしました」
「三宅島には気象観測機があるのに、僕たちの島にはありませんでした。今回ライオンズのおじさんたちに頂いたので、早速みんなで協力して気象観測所を作ることにしました。村の人々もぼくたち生徒もとても喜んでいます。ありがとう」

品物が届けられた後、東京上野ライオンズクラブのメンバー横内秀夫さんが、視察と報道用の写真を撮るために、三宅島から月に2便出ていた定期船に乗り御蔵島を訪れた(65年9月号)。学校の校庭には新しい百葉箱が白く輝き、風速計がカラカラと音を立てていた。教室では先生の弾くピアノに合わせて生徒たちが明るい歌声を響かせていた。島で撮影した写真の写真展を銀座の百貨店で開催すると大きな反響を呼び、後に医療団の派遣にもつながった。しかし横内さんの報告は単純に「めでたし、めでたし」というものではない。
「この視察で最も痛感したのは、環境の厳しさである。若者たちは次々と去り、老人と子どもと女の島であった。人口減、労働力不足、林産資源の長期計画の無為。私たちの奉仕は微々たるものに過ぎないという反省と、社会全体で考えねばならぬであろう多くの宿題を抱えて島の人々に別れを告げた」

老婆は見知らぬ人に会うと、「うな(お前)なんしに来た?」と話しかけた(御蔵島)

さて、その「宿題」は半世紀を経た今、どうなったか。支援した島の一つ八丈小島は、島民の協議・決定により69年に全島民が離島、無人島となった。日本で初めての集団離島だった。その他の3島は今も人々が暮らす。都会では物質的豊かさ、便利さが進むにつれ、豊かな自然に対する人々の憧憬も強くなっていった。東京の離島にはそれがある。澄んだ空気、青い空と海、豊かな動植物、夜は満天の星空。変わらなかったことで、都会には無い豊かな島の自然が、人々を魅了している。

2019.11更新(文/柳瀬祐子)