歴史伊勢湾台風被災者支援の連携

伊勢湾台風被災者支援の連携
山梨県・甲府ライオンズクラブは、台風で孤立した芦安村まで山越えをして食料品や衣類を運んだ→『ライオン誌』60年1月号

1959年9月26日、台風15号が日本を襲った。18時頃に紀伊半島の先端・和歌山県潮岬に上陸し、本州を縦断、富山市の東から北陸、東北地方の日本海側を北上して、東北北部を通り太平洋側へ抜けた。気象庁の統計(1951年~現在)によると、上陸時気圧は929ヘクトパスカルで61年の第2室戸台風に次いで低く、最大風速は愛知県渥美町で記録された45.4m(最大瞬間風速55.3m)。ほぼ全国で20mを超える最大風速と30mを超える瞬間最大風速を記録している。被害は近畿・東海を中心に全国で死者・行方不明者5000人以上、住家全壊4万件以上、半壊11万件以上、床上浸水15万件以上に上った。後に「伊勢湾台風」と呼ばれることになったこの台風の犠牲者数は、1995年に阪神・淡路大震災が発生するまで自然災害によるものでは最多であった。

これほどに被害が大きくなった原因の一つは、高潮だった。低気圧による海面の吸い上げ(気圧が1ヘクトパルカル下がると海面が1cm上がると言われている)と、暴風が伊勢湾の奥に海水を送り込んだのに加え、満潮時刻も重なり、湾の奥では4m近い高潮となった。名古屋市南部などでは海抜0m以下のところも少なくなく、堤防が決壊するとすぐに水没、更に名古屋湾の貯木場にあった多数の材木が波に乗り街を襲った。

静岡県・浜松ライオンズクラブは1000人分の弁当を携えて名古屋入り。弁当はそこから名古屋ライオンズクラブが手配したヘリコプターで被災地へと運ばれた

全国各地のライオンズクラブは、風雨も吹きやまないうちに救援の準備に取り掛かった。まず日本全体で会員一人当たり100円の拠出を決めた。9月末の日本の会員数が約7000人なので、合計で70万円になる計算だ。これに先立ち、いち早く適切な行動を起こすために準備を進めたクラブも少なくない。メンバーの家庭からは次々と支援の品々が集まり、連絡を受けては被災地に急送されていった。

台風の被害が特に大きかった地域のライオンズも奮闘した。名古屋では会員一人当たり2000円を拠出、50万円を市の水害対策本部に寄付した他、全国のクラブから送られてくる義援金や救援物資の処理分配などに当たった。静岡県・浜松ライオンズクラブは嵐の翌日、会員が1000人分の温かい弁当を車に積んで名古屋へ向かった。弁当が名古屋に到着すると同時に、名古屋ライオンズクラブが手配したヘリコプターで孤立した罹災者への空輸も行われた。岐阜では地元特産の繊維製品を送り出し、三重県・伊勢ライオンズクラブは、被災地からの集団疎開児童を鳥羽に出迎え、その宿舎を訪れて衣類や文房具、運動用具などを送って元気づけた。山梨県・甲府ライオンズクラブは県山岳連盟の協力を得て、孤立した同県芦安村まで山越えの12kmの道のりを食料品や衣類等を運び、連絡手段を絶たれ不安の中にいた村民から大いに感謝された。

こうして集まった義援金と、全国から寄せられた衣料品や生活雑貨、ノートや鉛筆といった学用品などの救援物資の総計は500万円を超えた。またアメリカにあるライオンズクラブ国際協会の本部から1000ドルの救援金が届いた他、海外のライオンズクラブからも多くの支援があった。名古屋市内のライオンズクラブは伊勢湾台風災害救援特別委員会を設置。寄せられた浄財を基に、被災した34の小学校と五つの保育園へ、1台ずつ計39台のオルガンや支援物資を届けた。日本にライオンズが誕生してからまだ7年余りということもあり知名度は今よりも低く、支援した小学校からは「ライオンズクラブというのはどういう団体なのですか」という質問もあった。中には「西鉄ライオンズがこんなに見舞いをしてくれるのに、地元の中日ドラゴンズは何をしているのか」と教師同士が話し合った学校もあったという。結果、名古屋のクラブによる取り組みは、6万人を超える教員や児童にライオンズクラブを知ってもらう機会となった。

名古屋市内のライオンズクラブが贈ったオルガンの周りに集まり、笑顔を見せる子どもたち

ライオンズクラブの組織内でも、この苦境における助け合いがあり、更に友情を深めることとなった。名古屋市では、翌60年4月に東日本中のライオンズクラブが集う年次大会の開催が予定されていた。しかし伊勢湾台風により、名古屋の交通路線やインフラが大きな被害を受けただけでなく、困難な状況にある会員も少なくなかった。そこで大会開催の代替地として手を挙げたのが、新潟市のライオンズクラブである。

新潟市では1955年の秋、フェーン現象による大火で7万8000坪が焼失し、1200世帯が罹災した(奇跡的に死者はなかった)。この時、全国のライオンズクラブから義援金が寄せられたが、名古屋のクラブからは特に手厚い支援を受けた。これに感激した新潟県知事が会長となり、翌56年に新潟県内で最初の新潟ライオンズクラブが誕生した経緯がある。新潟のライオンズは、あの時の恩を今こそ返すべきだと立ち上がったのだった。→『ライオン誌』60年2月号

通常半年以上の準備を経て催される大会だが、59年の暮れも間近に迫る頃に新潟での開催が決定すると、わずか4カ月後、立派に年次大会が開催された。5月7日の前夜祭から8日の会議、そして9日の観光と3日にわたるスケジュールに1000人が参加。互いにねぎらい、親交を深め、これからもライオンズがより多くの人々の助けとなれるよう強く手を取り合った。

2019.08更新(文/柳瀬祐子)