取材リポート 2018年最後の事業
年越しそばの提供

2018年最後の事業 年越しそばの提供

島原市は雲仙岳の麓に広がり、東は有明海に臨む島原半島の中心都市。島原城や武家屋敷など旧城下町の町並みが残り、九州を代表する観光地の一つとなっている。

島原城は大坂夏の陣から3年後の1618年、大和(奈良県)五条から島原に移封された松倉豊後守重政によって築城された。当時森岳と呼ばれた高地を城の形に切り取って、石垣を積み堀を掘って、7年の歳月を費やして築いたという。この城が、4万石の大名としては立派すぎ、民衆は多大な負担を強いられた。更に飢饉(ききん)やキリシタンへの迫害も重なり、1637年には耐えかねた民衆によって日本の歴史上最大規模の一揆、島原の乱が起こされた。

島原城はその後、約250年間4氏18代の居城として数々の歴史を刻んだが、明治維新により廃城。現在は1964年に復元された天守が城跡に建っている。2006年には日本100名城に認定され、16年には県指定史跡となった。敷地内には梅の花が咲き、市民の憩いの場としても親しまれている。近年では運営が株式会社になったこともあり、謎解きイベントや、島原ゆかりの歴史上の人物に女性が扮した島原城七万石武将隊によるPRなど新たな手法で広報活動をしている。

そんな島原城の敷地内に「時鐘楼」と呼ばれる鐘つき堂がある。1675年に当時の島原藩主・松平忠房が「人々に時刻を知らせ、守らせることは政治の中でも大切なことである」と鐘を鋳造させ、鐘楼を建立した。毎時鳴らされる鐘の音は遠くまで響き、明治維新後も地元の人に愛されたという。しかし戦時下である1941年に発布された金属類回収令によって、44年、この鐘も運び去られてしまった。以来、鐘楼だけが残っている時期が長く続いた。

市民の生活に根付いていたこの鐘の音を取り戻そうと考えたのがライオンズクラブである。1971〜72年時に302W-7地区(福岡県・佐賀県・長崎県)の地区ガバナーを務めていたのが、島原ライオンズクラブ(村中賞悟会長/87人)に在籍していた樋口正規さん(故人)だった。そして、地区全体の合同事業として島原城の鐘を復活させることとなったのである。

「青少年愛の鐘」と名付けられたこの鐘の落成式が行われたのは73年12月23日。復元された鐘は直径69cm、高さ132cm、重さ375kgほどで、銘文や模様は島原の出身で、長崎平和祈念像などで知られる日本彫塑界の最高峰・北村西望氏の労作によるものだ。

鐘を復元して以来、島原ライオンズクラブでは毎年、大みそかに鐘つきのイベントを実施している。当初は夕方5時頃に子どもたちに除夜の鐘をついてもらっていたが、現在は深夜につく。今ではすっかり地域のイベントとして定着し、ご当地歌手や、前述の武将隊による演舞なども実施されるようになった。

島原ライオンズクラブは鐘つきに合わせ、ぜんざいや豚汁を無料で提供。ここ数年は除夜の鐘ということから、年越しそばを提供している。病院が近くにあるので、騒がしくなり過ぎないよう配慮しながらの実施だが、地域にしっかり根付いているため、良好な関係が築けている。

2018年12月31日。平成最後の大みそかも、島原ライオンズクラブは年越しそばを用意して人々が来るのを待っていた。17年は用意した300食がすぐなくなってしまったため、18年は350食に増量した。

会員たちは昼の3時頃に集まり、準備をする。その後一旦解散し、夜9時頃に再集合してそばを振る舞う。島原城前でそばを振る舞いながら年を越すのが毎年の恒例になっている。10時頃からそばを提供し始めるが、中にはまだ準備中の9時頃から並んでいる方もあり、毎年楽しみにしてくれているのがうかがえる。ここでそばを食べて鐘をつき、その足で初詣に、という市民も多い。

10時を過ぎ、そばの提供が始まると、早速列が延びていく。今回は、7年後に築城400周年を迎える島原城のための募金も実施した。今後は島原城と協力して、もっと多くの集客が出来るイベントにしていきたいと考えている。

年が明ける頃には島原ライオンズクラブが用意した350食のそばは無くなっていた。島原城の鐘の音を背に、島原ライオンズクラブの2019年が始まった。

2019.02更新(取材・動画/井原一樹 写真/関根則夫)