歴史交通安全:
安全のための戦いをリード

交通安全: 安全のための戦いをリード
1964年、交通整理と交通安全ビラの配布を行う大阪府・貝塚ライオンズクラブ

第二次世界大戦後、荒廃した国土と産業の復興のためトラック輸送が増加した。そして国民の暮らしが豊かになってくると、今度は自家用車が急速に普及。これに伴い交通事故が急激に増加していった。当時、高速道路を始めとする道路網はどんどん発展したが、歩道や信号機など安全面の整備が追い付いておらず、自動車への規制取り締まりも不十分であった。そのため、多くの歩行者が犠牲になり、特に子どもと60歳以上の高齢者が巻き込まれる事故が高い割合を占めた。

1960年代には「交通戦争」という言葉が生まれた。1966年に交通事故による年間死亡者数が1万4000人を超え、日清戦争時の日本側の死者数(1894~95年の約2年間で1万7000人)に迫ったことから、この状況は一種の戦争状態だとして名付けられたものだ。1970年までその数は増え続け、年間の死者数は1万6800人にまでなった。

ライオンズクラブもこの事態を重く見て、対策に乗り出した。1962年度、そして67年度と68年度には2年間継続して、交通安全を日本ライオンズ全体で奉仕活動の年間スローガンに掲げた。『ライオン誌』が主催した交通問題をテーマとした座談会(68年1月号)では、警視庁交通部交通安全教育課長が「交通事故を無くすためには三つの原則がある。教育、技術、取り締まりだ。ライオンズクラブには安全教育に協力してもらいたい。各地域ごとにキャンペーン活動をして頂きたい」と述べている。ライオンズクラブは全国各地にあり、それぞれの地域に合った対策を講じられる。更に市民をリードする立場の人が少なからず在籍しているという強みを生かし、さまざまな運動を繰り広げることが出来る。

新潟市内の5クラブは、無人踏切に安全標識を設置した→『ライオン誌』66年2月号

1962年、塚田十一郎新潟県知事(新潟ライオンズクラブ会員)は全国の自治体に先駆けて、交通安全県を宣言した。県とライオンズがタッグを組み、地元企業も巻き込んで、交通安全の長期計画に取り組んだ。1~2年で収まるはずのない状況を見越したものだ。例えば新潟市内のある通りに設置されたガードレールは、八幡鋼管と東芝フェンス工業が寄贈、設置工事費を市内の五つのライオンズクラブが負担した。新潟市内のライオンズはまた、必要に応じて移動出来る信号機を贈呈した。

1965年に起きた新潟市郊外の無人踏切(当時、有人踏切では踏切番が手動で遮断機の開閉を行っていた。無人踏切には遮断機は無かった)での悲惨な事故も、交通安全運動の必要性をあらわにした。ライオンズ会員が経営する会社の社員3人が乗った自動車が電車と接触、全員が死亡したのだ。事故後、新潟ライオンズクラブが調べたところ、市内に同様の踏切が130カ所もあることが分かった。二度とこうした事故が起きないようにと願いを込めて、50カ所に注意を喚起をする「一時停止」の標識を取り付けた。

登下校時などの子どもたちを守るために、小学校での交通安全教室も盛んに行われた。茨城県・水戸葵ライオンズクラブが1967年4月に市内の八つの小学校の新入学児童を対象に実施した教室では、校庭に模擬道路を作り信号機を設置して、乗用車、大型バス、救急車、パトカー、白バイなどを用意し、混雑する市街地を再現。横断歩道の渡り方、自転車での通学方法などの指導を行った。これは新聞などにも取り上げられて大きな反響を呼び、この時に実施出来なかった小学校からの開催希望も多く寄せられた。更にクラブは県警察本部から協力要請を受けて指導に当たるなど、市民の交通安全に対する意識向上に大きく寄与していった。

1960年代半ば、交通事故が急増する中、広島県・因島ライオンズクラブが市内主要横断路に横断旗を設置

健常者ですら危ない交通状況は、視覚障害者にとっては更に厳しく、学校や仕事に出掛けることを阻む、命に関わる危険となっていた。献眼推進や盲導犬育成など視覚障害者支援に取り組んできたライオンズにとって、これは看過出来ない問題だった。福岡県・北九州八幡ライオンズクラブのある会員は自宅近くに県立盲学校があり、日頃から登下校する生徒たちの姿を見ていた。通学路と交わる国道3号線の朝夕のラッシュ時は車の通行が激しい。交差点で彼らは耳を澄まし、車の音が静かになった一瞬に渡るのだが、危なっかしいことこの上ない。雨の日は車の音が雨に消されて聞き取れないのか、長い間立ちすくんでいることもあった。

事故が起きないうちに早くなんとかしなければと、北九州市内の三つのライオンズクラブが合同で、音で知らせる信号機を贈呈することを決定した。とはいえ実はこの時点では、そのような信号機を実際に見た会員は一人もいなかった。名古屋や千葉にまで実地調査に出掛けたが、満足出来る設備にはなかなか出会えない。そんな時、ある業者が創案したチャイム・タイマー信号機の話が飛び込んできた。信号が青色になる26秒間、「ド・ミ・ソ、ド・ミ・ソ」とチャイムが鳴る設計だ。予行練習として盲学校生徒に参加してもらい、利用出来ることが確認されると、いよいよ正式な寄贈となった。

1966年6月、贈呈式では信号機のチャイム音を聞きながら喜々として横断歩道を渡る生徒たちがいた。
「朝起きると、まず天気が気になりましたが、今日からはチャイムを聞きながら渡れます。ライオンズのおじさん、ほんとうにありがとう」
生徒代表の謝辞に、会員たちは子どもらの日頃の苦労を想像して涙し、ますますライオンズの奉仕活動に徹することを心に誓ったのだった。

静岡県・沼津ライオンズクラブは1966年、沼津盲学校通学路の交差点に音の出る信号機を寄贈

視覚障害者のための総合福祉施設・日本ライトハウスの岩橋英行理事長(当時)は、『ライオン誌』68年3月号に「盲人を交通戦争から守ろう」という記事を寄稿している。自身も視覚障害があった岩橋氏は、大阪城東ライオンズクラブのメンバーでもあった。記事では、日本の交通戦争が日々激しさを増す中で、視覚障害者への公的な対策は全くと言ってよいほど取られていない現状に言及。欧米では2年間の特別な歩行訓練コースが設けられており、日本でもこのような訓練コースが求められること。しかし実現までには数年を要するだろうから、その前に視覚障害者を守るための喫緊の処置が必要であると述べている。その一例として挙げたのが、京都のライオンズが市内で取り組んでいた点字ブロックの設置だ。今でこそ日本中の歩道や駅などに敷設されているが、当時岡山にある安全交通試験研究センターで開発されたばかりのものだった。横断歩道、プラットホーム、陸橋のたもと、階段の始まりに点字ブロックが設置されると、視覚障害者からとても喜ばれた。

2019.01更新(文/柳瀬祐子)