フォーカス 笑顔を励みに42回を数えた
障害者施設での無料検診

笑顔を励みに42回を数えた 障害者施設での無料検診

高山岊城(せつじょう)ライオンズクラブが障害者支援施設の高山山ゆり園で耳鼻咽喉科無料検診を始めたのは、私が入会して2年目のことで、今から42年前になります。高山で開業する前、赤十字病院に勤務をしていた頃に、時々ボランティアで山ゆり園などの施設で検診をやっていたので、その年に社会福祉委員会に入ったのを機にクラブに無料検診を提案したんです。それからは毎年、3月3日の耳の日に合わせて検診を行い、毎回入所者60人から70人ぐらいを診ています。

山ゆり園は知的障害のある成人のための施設です。知的障害者には、鼻をかむということが出来ない人がいます。鼻水がたまると、耳や喉も悪くなってしまう。検診を始めた頃は施設の環境はあまり整備されていなかったし、こうした施設の職員の数が少なかったこともあり、鼻水や耳垢がたまった人が多かった。ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、1回の検診でコップ1杯ほども耳垢を取ったこともありました。長年、耳掃除をしていないためにたまる場合もありますが、触り過ぎて傷が出来てカビが生えることもあります。カビを放置すると胞子を出してびっしりと耳をふさいでしまうんです。他にも、耳や鼻に小石などの異物を入れてしまう癖を持った人がいる。そのため検診を始めた当初から、病院から吸引器などの機器を運び込み、看護師を連れて行っています。中には診られるのを嫌がって暴れる人もいて、そんな時は大柄な職員の方に身体を抑えてもらわなければならないので、けっこう大変です。

高山では「地の人」に対して「旅の人」という言い方をしますが、私は旅の人です。生まれたのは仙台ですが、覚えているのは防空壕とその中の臭いぐらい。6歳の時に岐阜の黒川(現在の白川町黒川)にある祖父の家に疎開しました。JR高山本線に白川口という駅がありますが、そこからバスで1時間ぐらい入った山の中です。当時は疎開の人が多くて子どもも大勢いた。ほとんどが農家か林業をやっていましたが、田舎なのに本当に食べる物がなかった。中学から名古屋へ行き、岐阜大学を出て大学病院、高山の赤十字病院と勤務して、昭和49年に開業しました。そもそも医者になろうと思ったのは、黒川の小学校で野口英世の映画を観て感動したからです。それから他のものになろうなんてことは、一度たりとも思わなかった。その頃は知りませんでしたが、祖父は黒川には医者がいないから何とか自分の家から出したいと、父を医者にしたかったんだそうです。でも父は医者にはならずに役人になった。祖父は私が大学2年の時に亡くなりましたが、医学部に合格した時にはとても喜んでくれました。

私が開業してから1週間もしないうちに、大学時代にお世話になった内科医の加藤功先生に誘われて、高山岊城ライオンズクラブに入会しました。高山岊城ライオンズクラブは功先生が中心になって作った高山で2番目のクラブで、若い会員が多く、活気のある雰囲気で、私は面白くて仕方がなかった。いろいろと役をやらせてもらって、すぐにのめり込みました。入会2年目に、こんなことがやりたいと無料検診を提案した時にも、ぜひやれと賛同してもらいました。

高山岊城ライオンズクラブでは年1回の耳鼻咽喉科無料検診の他にも、山ゆり園にさまざまな備品を寄贈して支援をしてきました。この42年の間に山ゆり園の施設はだんだんと充実し、今は以前とは比べものにならないほど立派になりました。職員の数も増えているし、もう検診の必要はなくなってきたようにも思います。しかし今も、検診を終えた後に「よく聞こえるようになった」と笑顔を見せる人がいるし、施設からは喜んで頂けているので、今後も続けていきたいと思います。

2018.10更新(取材/河村智子)

かとう・くにじ 1939年12月、宮城県仙台市生まれ。岐阜大学卒業後、74年7月に岐阜県高山市で加藤耳鼻咽喉科医院を開業。同年、高山岊城ライオンズクラブに入会、1989-90年度会長。クラブ入会から2年目に障害者支援施設での耳鼻咽喉科無料検診の活動を提案し、以後毎年3月3日の耳の日に合わせて高山山ゆり園で無料検診を実施。今年42回目の検診を行った。